恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
父が熱を出して母が看病に向かう。それだけのことでこんなにも我が家が、というより私が取り乱すことはない。
ならば、なぜこんなにも念入りにお洒落をしているのか。
妹の成人式の着物を選びに行く日――そして、自分にとっても特別な日なのだ。
本当は母が妹について行く予定で、私は家で留守番をするつもりだった。
二人から「一緒に行こう」と誘われたけど、どうしても行く決心がつかなかった。
理由は単純。
昔、好きだった人がいるから。
そして今も……好き。
だけど私はその人に、五年前にフラれていた。
だからどうしても、会いに行く気になれなかった。
もちろん五年の間に、私は彼以外の男性に“恋”という名が付きそうな感情を抱き、付き合いもした。
けれどその度に、その感情を恋と呼ぶには、何か足りないと気付かされたのだ。
いつだって頭の中に過るのは凄艶と微笑む彼の姿で。その瞳はいつだって私を「可愛い“女の子”だね」と言っていた。
それは『大人になられたら、またご来店ください』と言って、私をフッた彼の瞳。
もし、また同じことを言われたら……どうしたらいいのだろう。
そう思うと、胸の底に不安が積もり、私は彼に会えるという唯一の機会を見送ろうとしていた。
だけど父が高熱を出したことで状況は一変。彼に会わねばならない状況になったのだ。
妹は県外で一人暮らしをしながら大学に通っている。今は春休みで帰ってきているが、明後日には帰る予定だった。
母は父の看病も兼ねてゆっくりしてくるらしく、裕子とは入れ違いに帰ってくるようだ。
妹も大事な買い物だからと付き添いがいてほしいらしく、自動的に私がついていくしかなくなったのだ。
まだ少し気持ちが強張っていたけれど、心のどこかに「会いたい」という気持ちがなかったわけではない。
それは不安以上に、五年間積もり続けていた想い。
ついて行くと決めたなら、同じ言葉で帰されないよう、最大限努力するだけだ。
「お姉ちゃん、そろそろ行く?」
母が開け放ったままのドアから、本日の主役である妹の裕子が緩いウェーブがかかった髪に、西洋人形のような顔を覗かせた。
「うーん……」
さっきと同じように唸るような返事をし、鏡の前でくるりと回転して全身をチェックする。そうして、胸元まで伸びた髪を再度クシで梳き、顔を近づけてメイクを確認した。
「ま、待って! もう一回マスカラ重ねるから」
鏡の中の自分は、まだいつもの顔から抜け出せていなかった。
もう少し……もう少し大人っぽく、綺麗に。
五年前と違う、二十四歳の私を彼に……十夜(とうや)さんに見てほしい――。
あの頃の彼は二十七歳。今はもう、三十二歳だ。
そう考えると、やはりまだ大人の雰囲気が足りない気がしてくる。
私が再度化粧ポーチを取り出すと、妹は呆れたようにため息を吐いた。
「お姉ちゃんって、そんなにメイクする方だっけ?」
「早くしてよ」と言葉ではなく口を尖らせた態度で急かされる。だけど、私は気付いてないふりをしてマスカラを重ねた。
恐らく十夜さんの中の私は、十九歳で止まったまま。私の中の彼が、五年前の輝きを放つように。
それなら……大人になった私で驚かせてみたい。
(貴方はきっと、もっと妖艶な輝きに満ちているのでしょうから)
私はそれに負けないほど……までは望まないけれど、側でいられるほどにはなりたい。
だからどうか、神様。今日だけでも……一番綺麗な私に変身させて。
願いを込めるように、唇へ桃色のグロスを乗せた。