恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
駅前の商店街へは自宅から水色のバスに乗って三十分。
駅近くにある職場へ働きに出ているので、仕事の時も同じバスを利用している。
だけど、今日は気分が違う。
いつもなら眠気の残る頭を項垂れて、ガタガタと揺られるだけだが、今日は鼓動が忙しなく脈打っている。落ち着かない。そわそわする。
気分は違っても車窓から見える景色は変わらなくて、駅が近づくにつれ、私の胸は高鳴りを増していった。
「ホント、ここの商店街ってちょっと寂れてるよね」
駅のバスステーションで降り、そこから歩いて五分もかからないところに商店街がある。
私達は閑散とした商店街の入り口で立ち止まり、その様子を眺めていた。
「閉店してるお店もあるからね……」
肩を竦める裕子に、私も同調するように苦笑した。
それでも、もう一度商店街に活気を取り戻そうと、市の団体が動き始めているらしい。以前より居酒屋等の飲食店が増えた。
しかし、夜なら飲み会等で多少は賑わうのかもしれないが、日曜の昼間は母が言った通りお年寄りばかりだ。商店街にかかったカラフルなアーケードの下を、裕子と二人で歩いていると少し目立つくらい。
「お姉ちゃん、お店の場所覚えてる? 商店街の突き当りは右? 左?」
「ど……どうだったかな」
なんとなく、まだ勇気が出なくてとぼけてしまう。本当は、頭の中ではしっかりと順路が描かれているというのに。
(十夜さん……本当は、貴方に何度も会いに行こうとしたのです)
だから十夜さんのいるお店へ続く道を、忘れたくても忘れることなんてできなかった。
しかし、私のとぼけ具合を本気だと受け取った裕子は、焦ったように顔を覗きこんできた。
「だ、大丈夫なの? まぁ……商店街の中だから、迷ったとしても知れてるけど」
語尾が不安そうにフェードアウトしていく。
なんだか、これでは裕子をいじめているようだ。
「あ、思い出した……! 右の一番奥っ」
思い出したフリをして教えると、裕子が勢いよくこちらを見てきた。
「ホントに?」
「うん、ホント。大丈夫だから」
「よかったぁ……。お姉ちゃん、たまにボケてるから」
裕子は小言を零しながらも、ホッとしたような笑みを浮かべた。
商店街の入り口から歩いて五分もすれば、私の言葉通りの場所に、筆文字で『益田呉服店(ますだごふくてん)』と書かれた木の看板があった。
「あそこ? お姉ちゃんが振袖を注文したところって」
「……」
「お姉ちゃん?」
「あ、ごめん! ボーッとしてて……」
視界に『益田』の文字を捕えた瞬間、私の足は鉛を付けたように重くなった。
その場から動けなくなり、先を歩いていた裕子が振り返る。呼ばれても、すぐに駆け寄ることさえできない。
(十夜さん……こんなにも近くに来てしまいました……)
五年ぶりに十夜さんと会う。そう思うと、急に怖くなってしまったのだ。
「どうしたの、お姉ちゃん。今日、ちょっと変だよ」
裕子が眉をひそめ、様子を窺ってきた。その表情には呆れの色も浮かんでいる。
「あ、やっぱり……帰ろう、かな」
「え!? 何言ってるの? 着物って高いんだから! 私ひとりじゃ不安だよ。ほら、行くよ!」
「あ、ちょっと……裕子……っ」
裕子に腕を引っ張られ、つんのめりながら歩き出した。
ああ……ついに、目の前に。
『若旦那がいるんだっけ?』
母の言葉を思い出し、胸が早鐘を打つ。息が詰まりそうだ。
苦しくて、ワンピースの胸元を掴んでいると、裕子に肘で小突かれてしまった。
「お姉ちゃん。ほら、先に入ってよ」
「あ、うん……」
大丈夫。ちゃんと綺麗にしてきたし、大人になったもの。落ち着いて、落ち着いて、大丈夫。
暗示のように、自分に言い聞かしながら、コクリと喉を鳴らす。
ゆっくりと手を伸ばし、木製の千本格子(せんぼんごうし)に麻の模様が組み込まれた引き戸に手をかけた。格子の間にある擦り硝子からは中の明かりが漏れている。
深呼吸をし、唇をキュッと噛んで気合いを入れる。そして、戸にかけていた手に力を込めて、横に引いた。