恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
私は下唇を噛みしめた。そうしていないと、今にも涙が零れてしまいそうだった。
すると、十夜さんがチラリとこちらに視線を送ってきたのがわかった。それから身をかがめ、ふるふると肩を揺らし始める。
「と、十夜さん?」
お腹を押さえている。どこか痛いのだろうか。
慌てて十夜さんを覗き込むと、彼は声も震わせていた。
「凛子さん、真剣っ……」
「え?」
「すみません、凛子さんで遊んでしまいました」
もう堪えられなかったらしい。十夜さんは堰を切ったように破顔した。
どうやら、私はからかわれていたらしい。
「も、もうっ……十夜さん! ヒドイですっ」
まだ笑う十夜さんとは反対に、私は顔を熱くして口を尖らせた。
十夜さんに簡単に騙されるなんて。まだまだ大人になれていない証拠だ。
自分に落胆していると、十夜さんは息を吐いて呼吸を整えた。
「やはり私は子供になってしまったようです」
「……そ、そうですか?」
(十夜さん、そんな子供はいませんよ)
優艶(ゆうえん)に瞳を細める十夜さんを、心の中で咎めた。
笑い終えた十夜さんは、涙でも出たのか、スラリとした指で目尻を拭う。
「翠さんは、私の母親が行っている茶道教室の先生の娘さんです。他には縁も関係もありません」
「そう……ですか」
ポツリと返事をすると、十夜さんは静かに頷いてくれた。
だからと言って、十夜さんの独り身が確定したわけではないのに。私は胸の底から安堵の息を吐いた。そして、今度は火傷をしないように、ゆっくりお茶をすすった。
「……おいしい」
「それはよかった」
十夜さんが小さく呟き、穏やかな空気が流れる。
しかし、その空気を裂くように「お姉ちゃん、ちょっと見に来て」と、裕子に呼ばれてしまった。
「わ、わかった。今行くから」
私は奥の部屋へ返事をし、慌てて立ち上がろうとした。だが、十夜さんが先に腰を上げる。
「さて、僕も仕事をしましょうか」
十夜さんはサラリと黒髪を揺らして身をかがめると、私に手を差し出してくれた。
私の身体は無意識に固くなる。
きっと十夜さんには気付かれている。その証拠に、またクスリと笑われてしまった。
「大丈夫です。途中で手を離すなんていうイタズラはしませんから」
「う、疑ってるわけではありません」
(……ただ、緊張してしまうのです)
差し出された手を見て、途端に噴き出す手汗。
恥ずかしいから十夜さんの手に触れたくない。でもそれと同時に、その手に触れたいとも思ってしまう。
矛盾した感情は、とても複雑。
結局、好意を受け取ることも兼ねて、俯きながらその手を握った。
思った通り、全身はかぁっと火照りだす。けれど、緊張からか、指先だけはとても冷たい。
手を早く離してしまいたい。でも、このままずっと時が止まってしまえばいいのにとも思う。
(人と手を繋いで、こんな想いに駆られたことは初めてです)
……やはり、とても複雑。
* * *
結局裕子は、最初に自分で選んだものを購入することにした。
私から見ても一番似合っていたし、十夜さんも「熨斗模様(のしもよう)は晴れ着にとてもいいですよ」と教えてくれた。
「では、三か月後にまたお待ちしています」
反物を裕子の着物へと仕立ててもらう。三か月後には出来上がるようだ。
「お姉ちゃん。出来上がった着物、取りに行ってくれない?」
申し訳なさそうに裕子がお願いをしてくる。確かに県外に住んでいる裕子が取りに行くのは難しい。
今度はいつ会えるかと思っていたけれど、思わぬ再会の約束ができた。
「じゃあ……着物は私が取りに来ますので」
「はい、凛子さんですね。今度は五年後……なんて、ならないでくださいね」
「なっ……なりません!」
十夜さんはコロコロと笑い、軽やかに私の心を弄ぶ。
またからかわれたのが悔しくて、頬を膨らませてフイと顔を背けてみせた。すると、鋭い視線を向けてくる翠さんと目が合ってしまった。
美人が凄むと怖さが増す。嫉妬の炎が覗く瞳は、私の背筋をゾクリと冷やした。
「で、では……これで」
「はい、ありがとうございました」
私は微笑んでくれる十夜さんに礼をして、裕子と一緒に、足早にその場を去った。