恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
ついに仕立ててもらった着物を受け取る日がやって来た。
約束では午後から取りに来てほしいと言われていた。なのに、朝からそわそわしてしまい、仕事へ行く日よりも早く起きてしまった。
リビングの時計が、出発予定時刻を差したと同時に、私は腰を上げた。まるで陸上のスタートの時みたいだ。玄関へ向かいながら、一人で恥ずかしくなる。
「あ、凛子。裕子の着物、取りに行くの?」
廊下を歩いていると、後ろから乾いた洗濯物を持った母に声を掛けられた。
「うん……そう。今日、できてるはずだから」
私は答えながら、手に持ったカゴバックで自分の身体を隠した。今日着ている水色のシャツワンピも、先週末の仕事帰りに買いに行ったものだった。あまり気付かれたくない。
「じゃあ、行ってくるね」
足早に玄関へ向かい、ウエッジソールのサンダルを履く。しかし、母は玄関までついてくると、やっぱり爪先から頭のてっぺんまで凝視してきた。
「凛子、またお洒落して……やっぱり若旦那ね」
「そ、そうじゃなくて」
「本当にぃ?」
母はニヤニヤと笑みを浮かべてくる。私は落ち着かなくて、頬にかかる髪を耳にかけた。
もしかして、母には気付かれているのだろうか。私の密かな恋心を――。
そう思うと、やたらと居心地が悪くなる。早く、十夜さんの元へ行ってしまおう。
「もう……! い、いってきます」
「あ、凜子! 傘、持って行かないの?」
母の注意を聞きながらも、投げやりに家を飛び出した。
* * *
外は曇天(どんてん)。バスの窓から見上げた空は低く、今にも雨が降ってきそうだった。
母の言う通り傘を持って出ればよかった。十夜さんのところに着くまで、天気がもってくれればいいけれど。
雨に降られてしまえば、せっかく選んだシャツワンピも、少しでも良く見えるようにと整えた髪も、施したメイクも……全て台無しになってしまう。
(十夜さん、あれから三か月。何も変わっていませんが……想いだけは強くなりました)
会えないからと諦め、他の人を好きになろうと過ごした五年間はなんだったのか。
止まっていたモノクロの世界が急に色づき、動き始めた。
私はその鮮やかな世界に戸惑うばかり。
今も、商店街へ向かう足は、はやる気持ちに反して小幅になる。臆病だな、と自分でも笑ってしまう。
益田呉服店に着くまでの間、雨は降らなかった。
お天気の神様に感謝をしながら、店の引き戸に手を掛けた。湿気のせいか、緊張のせいか。戸が前より重たくなっている気がする。
ドクドクと鼓動を打つ胸が痛い。こんなに緊張するのに、それでも好きだなんて。これでは近づきたくても、近づけないはずだ。
(これはまだ憧れだという証でしょうか)
ともかく、ここで止まっていてはただの怪しい人になってしまう。
私はひとつ深呼吸して、戸を横に引いた。
「お邪魔しま……っ!」
「いらっしゃい」
思わず息を止める。目の前に十夜さんがいたのだ。
今日は深緑の着物をまとい、顔には前回と同じく、色気をたっぷり含んだ笑みを湛えている。
前は裕子が呼びかけてから、気付いたように奥の部屋から出てきたのに。今日は座敷から降りて、戸のすぐ前に立っていた。
「あの、十夜さん……どうして、私だとわかっていたかのように……?」
「さて、どうしてでしょう?」
十夜さんは楽しそうにコロコロと笑いながら小首を傾げた。
落ち着いて考えればなんてことない。
午後になり、私が来ることがわかっていた十夜さんは、奥の部屋から出てきていた。そこへ入口の前で、じっと佇む怪しい人影があった。
自分の店の前に、そんな人がいたら気になるはずだ。そしてきっと、店へ入ることに、こんなに躊躇するのは私くらいだと思ったのだろう。
まさか入口の前から見られていたとは。恥ずかしくてたまらない。
熱い。頬が、顔が……全身が。この暑さはきっと六月のせいではない。
私は右手で首元を大きく仰いだ。
「では、凛子さん。中へどうぞ。仕立て上がった着物の確認を」
「はい。あの、今日もお父様は……?」
「出かけていますよ。僕が店にいる方が、売り上げがいいとかなんとか。理由をつけて店番を押しつけてくるんです」
十夜さんは困ったように笑った。
確かに、十夜さんがいたらお店に通うお客さんも多いだろう。十夜さんの物腰ならどんな女性にも好かれそう。なんて、贔屓目かもしれないけれど。
「凛子さん、こちらに座って待っていてください」
私は十夜さんに促され、座敷に腰を下ろした。