恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
十夜さんは奥の部屋へ行き、着物を用意しているのか、カサカサとわずかな音を立てる。それ以外の音は聞こえてこないし、人の気配もない。ということは、今日は翠さんがいないのだろうか。
三か月前に向けられた鋭い視線を思い出し、背筋に震えが走った。
「と、十夜さん。今日、翠さんはいらっしゃらないんですか?」
姿が見えない十夜さんに問いかける。
「ええ、翠さんは茶道教室の方に出ています」
「あ……そう、ですか……」
十夜さんの答えを聞いて、自然と全身の力が抜けた。
思わず、ホッと息を吐く。すると、そんな私を見ていたのか、十夜さんは「ふふ……」と可笑しそうに笑いながら、こちらへやってきた。
「と、十夜さん?」
「いえいえ……すみません、ね。凛子さんは翠さんが怖いですか?」
「そ、そういうわけでは……」
「怖がらないであげてください。悪い子ではないですよ。明るくて、チャキチャキしていて、仕事も頑張ってくれるんです」
「それは、わかります」
たった一度しか彼女に会っていないけれど、ハッキリとした物言いで、しっかりした人だということは感じ取れた。あと、自分のことをよく思っていないということも。
人のことを陰で悪く言う人は好きじゃない。だからこうして、翠さんを悪く言わず、褒める十夜さんは好き。実際、翠さんは可愛らしい女性だった。
(でも……なんだかすごくイヤな気持ちです)
悔しくて、恨めしくて……そして、そんな風に感じる自分が嫌い。胸に鼠色の雲がかかっていくよう。まるで、今日の空と同じ。
私が嫉妬に駆られているなんて、十夜さんには気付かれたくない。俯きながらキュッと下唇を噛んでいると、十夜さんは清々しい声を上げた。
「それよりも、凛子さん。着物が素敵に仕上がりましたよ」
十夜さんは満面の笑みで、桜色の着物を大衣桁(おおいこう)(着物をかける道具)にかけて見せてくれた。なんだか生き生きとしている。
隣にある撞木(しゅもく)には、黄金色(こがねいろ)の地に鞠(まり)のような模様が描かれた帯がかけられている。優しい色合いの着物によく合いそうだ。
「綺麗……」
胸にかかった雲が、一気に晴れていく。先ほどの嫉妬心は消え去り、自分のものではないというのに、綺麗に仕立てられた着物を見ると嬉しくなった。
流れるように描かれた束ね熨斗(のし)に、牡丹や桜、菊などの和華が咲き誇っている。色鮮やかで華やか。成人という門出にはぴったりだ。
「早く、裕子に見せてあげたいです」
「ええ、本当に。喜ばれるでしょうね」
十夜さんは着物を大切そうに見つめていた。その表情を例えるなら、大事に育ててきた子供を嫁にやるような父親のような顔。その姿に、いつものごとく見とれていると……。
「こんにちは」
ゆっくり戸が開き、腰が曲がった白髪の女性が入ってきた。女性は、藤色に所々白色で小さな兎が描かれた着物を着ていて、とても上品に見える。
十夜さんは私に「すみませんね」と小さく謝ると、座敷から降りて、そのお客さんへ歩み寄った。
「いらっしゃいませ。今日は何か気になるものでもありますか?」
十夜さんは腰をかがめて、話しかける。女性は彼の方を見ると、柔和な笑みを浮かべた。
「やっぱり、あの帯締めが欲しくなってね」
「ああ、いいですね。あの着物にお似合いでしたよ」
女性は欲しいものが買えるからか、とてもウキウキしているように見えた。そんな彼女を見て微笑む十夜さんも、また嬉しそうに見える。
「ではお包みしますから、少しお掛けになってお待ちくださいね」
そして、注文の帯締めを丁寧な手付きで包みだした。
着物に限らず、きっと商品一つ一つ、お客様一人一人を大切に想っている。
温かな気持ちで見つめていると、私の存在に気付いた女性は、こちらへ近寄ってきた。