恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
傘を返すのは一週間後の今日にした。
本当は次の日にでも行きたかったけど、間を空けずに行くのはあからさま過ぎて気が引けた。
でも、十夜さんのことだから、私の気持ちなんてお見通しかもしれない。
そう思うと恥ずかしい。けれど、また「返しに来て」と言ってくれているということは、拒否をされていない。そのことに安堵する。
今日も十夜さんに会える。緊張しながらも、幾分先週よりはその緊張を楽しめている自分がいた。
この調子なら、少しくらいまともに話ができるかもしれない。落ち着いたところを見せれば大人になったと思ってくれるかもしれない。
大丈夫、と自分自身を勇気づけていると、「油断するなよ」と言わんばかりに、雨粒がポツリとバスの窓を叩いた。
梅雨はまだ明けることなく、今日の予報も雨。
でも大丈夫。今日はちゃんと自分の傘も持ってきている。
バスから降りると、私は薄紅色の傘を開いた。
大袈裟だけど、ふふんと鼻をこすりたい気分だ。少しだけ落ち着いている自分を発見し、嬉しくなる。
だけど、それも益田呉服店に着くまでだった。
「あ! それ、私の傘!」
益田呉服店の戸を開けると、丁度翠さんが店番をしていた。そして私が持っている赤い和傘を見て、驚いたように声をあげた。
「えっ……と、これは翠さんの傘、ですか?」
「そうです。私の傘です! どうして貴女が?」
怪訝な顔をする翠さんは、藍色に紫陽花柄の涼やかな単衣(ひとえ)を着ていて、六月の蒸し暑さをひとつも感じさせなかった。
対して私は、シフォンのブラウスが雨と汗とで肌にペッタリと張り付いている。メイクも崩れているだろう。
「あの、私は十夜さんにお借りしたのですが……」
私は翠さんから一歩後退りながら、十夜さんのことを伝える。それを聞いて、翠さんは呆れたように大きくため息を吐いた。
「もう……十夜さんってば勝手なことばかりして。その傘、返してください」
ピッと私に手を伸ばしてくる。
……なんだ。赤い柄を握っていたのは、この華奢な手だったんだ。嬉しかったのに。
なんだか、悲しくなってくる。落胆しながら、翠さんへ傘を差し出していると……。
「こら、翠さん」
奥の部屋から十夜さんが現れた。爽やかな紫の単衣を着ていて、髪の襟足がかかる首元が、妙に艶っぽい。私の胸はトクンと高鳴った。
「その傘は僕のですよ」
「いいえ、私にくれたじゃないですか」
「違います。僕が置傘していたのを何度か翠さんが使っただけでしょう。あげるとは言っていませんよ」
「なら、今から私にこの傘をください! というわけで、それは私に」
再度翠さんから手を伸ばされて、私は躊躇しながらもその手に柄を置こうとした。
だが、すんでのところで横から手が伸び、奪われてしまう。
それは十夜さんの大きな手だった。
「何度言われてもこれは置傘です。なので、僕に返してくださいね。凛子さん」
「は、はぁ……」
十夜さんにそう言われれば頷くしかない。翠さんを見ると、不満気に口を尖らせていた。
「その傘が駄目なら、十夜さんが使っている紺色の傘をください。どうせそれは凛子さんが使ってしまったので、価値が半減していますし」
「何の価値ですか。紺色の傘もあげませんよ。僕の傘がなくなります」
「十夜さんには私が新しい傘を用意しますから」
「それなら翠さんがその新しい傘を使えばいいでしょう」
「……それでは、意味が無いんです」
翠さんは顔を赤くしながら、ポツリと呟いた。その“意味”が痛いほどわかる。
私も、十夜さんのものを借りただけだというのに、気持ちがとても高揚した。
そんなものがずっと側にあれば……幸せでもあり、誇らしい気持ちにもなる。
十夜さんは翠さんの心を知ってか知らずか、傘を奥の部屋へと片付けに行く。
残された翠さんは一つ息を吐きだして、睫毛を伏せた。
「……」
翠さんにかける言葉が浮かばない。声をかけたところで睨まれることもわかるから、更に何と言っていいかわからない。
気まずい、沈黙。破ったのは……
「凛子さん」
と、私を呼ぶ十夜さんの澄んだ声だった。
「あっ、はい」
「よかったら、お茶でも飲んで行きませんか?」
呼ばれて返事をすると、十夜さんは奥の部屋から麦茶のボトルとグラスを三つ、お盆に乗せて姿を現した。
一番の原因である彼が一番飄々としている。さすが色男と感心すべきか、それとも空気が読めないと咎めるべきか。
(お茶なんてもらって、ゆっくりして……いいのでしょうか)
傘を返したらすぐに帰るつもりだった。十夜さんの姿も見られたし、十分満足だったのに。
でももっと長く、十夜さんの側にいられるのならいたい。
緊張で身が硬くなりながらも、願う心。
(ただ少し……恐いです)
隣から投げつけられる翠さんの視線が鋭く、痛い。
私が戸惑い、身動きできずにいると、翠さんはいち早く十夜さんの隣に座り、麦茶を受け取った。
翠さんはとても正直で、真っ直ぐな人。私なんかが敵うはずもない。
そう、諦めているのに……。
「凛子さんも、どうぞ。冷たくておいしいですよ」
私に麦茶を注いだグラスを差し出してくれる十夜さん。すっと細められた瞳と、綺麗に綻ぶ口元。小首を傾げると艶やかに流れる黒髪。
(ああ……どうしようもなく、好き)
だから、諦められない。
美しい手から、グラスを受け取る。水滴が熱を帯びた私の指に触れて、じゅわりと音を立てた気がした。