恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
喉を通る麦茶がやたらと冷たく感じる。飲んでも飲んでも、乾いた喉が潤う気配はなかった。
麦茶を半分ほど飲み終えると、翠さんがツンとした顔をして口を開いた。
「用は済んだでしょ。だから早く飲んで、帰ってくださいね」
拗ねたような口調。私を嫌悪していることがありありとわかる。
「……す、すみません」
何も言い返すことができず、何故か謝ってしまう始末。でも言いなりにはなりたくない。
私がちびりちびりと飲んでいると、その様子を見ていた十夜さんは、クスリと笑みを零した。
「凛子さん、良かったら浴衣でも作りませんか?」
「え、ゆ……浴衣、ですか?」
あまりにも唐突な提案に、私は残り三分の一ほどになった麦茶を揺らしながら驚いた。
十夜さんは口元に弧を描いたまま、ゆるりとグラスを傾ける。コクンと喉仏を上下させて飲み干すと、その顔を私に向けた。
「八月に夏祭りがあることですし。今から仕立てれば間に合いますよ」
「夏祭り……」
毎年大勢の人でにぎわう、花火大会。私も何度か行ったことはあるけれど、ここ最近は行っていなかった。
「はい、夏祭りです。では、早速採寸をしましょう」
「あの……十夜さんっ」
今年も行く予定はない。だから浴衣を買うことも考えていなかった。しかし、そんな私に気付かず、十夜さんは楽しそうにメジャーを取り出して準備を始めた。
私が夏祭りに行くと思っているのだろうか。そして、当然のように浴衣を着ると思っているのだろうか。
「さぁ、凛子さん。座敷へ上がってください」
「あ、あのっ……十夜さん」
慌てて浴衣は作らないと伝えようとするが、手を差し出されてしまい、タイミングを失う。
手に触れたい。けれど、その手を取ってしまえば、作ると返事をしているようなものだ。
「十夜さん、あの……私っ」
「凛子さんには何色が似合うでしょうかね。なんでも似合いそうだ」
再度浴衣について伝えようとするが、十夜さんが私に合う浴衣を考え始めてしまった。
困ったな……。
楽しそうな十夜さんを見ていると、作らないなんて言えなくなってくる。
どうしたものかと考えていると、翠さんが一歩前に踏み出してきた。
「十夜さん、採寸でしたら私がします」
「翠さんが、ですか?」
「はい。十夜さんが採寸するのは、ちょっと……」
翠さんは苦い顔をした。私も彼女の言葉の先を読み、頬を赤らめてしまう。
十夜さんが採寸。身体の全てを知られてしまう。それ以上に、尋常じゃない距離まで接近する。
「失礼ですね。私もプロなので真面目にしますよ」
十夜さんが珍しく怒ったように口を尖らせた。その様子がなんとも、可愛い。
(そんなことを言えば、貴方は一層口を尖らせるのでしょうか)
「しかし、翠さん。そろそろ茶道教室のお時間ですよ。今日はそちらのお手伝いもあるんでしょう?」
「あ……」
十夜さんは壁にかかった時計を見やり、指を差す。翠さんもそれを見て、「しまった」という顔をした。
一瞬の静寂に、屋根を打つ雨音が響く。先ほどよりも、雨脚が強くなったようだ。
それでも、私がちゃんと傘を持っていたくらいだし、翠さんは雨下駄を履いているし、備えはできているだろう。
そう思っていたのだが、帰り支度を整えた翠さんは、出入り口の前で立ち止まったまま、出て行こうとしない。
「……」
「翠さん、どうしたんですか。教室に遅刻してしまいますよ」
「……傘を」
「傘?」
「傘を忘れたので。十夜さんの、紺色の傘を貸してください」
翠さんの語尾は小さくなっていき、それと共に顔を俯けた。あれほど積極的なのに、照れているのだろうか。
十夜さんは息を吐き、笑みを零した。まるで、いたずらをした子供に呆れているようだ。
「嘘はいけません、翠さん。その水色の傘はどなたのですか?」
「……ッ」
十夜さんの視線は、入口近くにある傘立てに注がれていた。私の薄紅色の傘と並んで、淡い水色の傘が差してある。
翠さんは下唇を噛み、どうにもならない想いを吐き出すように単衣の袖を握っていた。いじらしいその姿から、十夜さんはそっと視線を逸らす。
「ま……また、明日来ます!」
強く言い放ち、翠さんは傘立てから水色の傘を持って出て行った。
バタバタバタ……と響くのは、翠さんの足音ではなく雨音。翠さんのそれはすぐに掻き消されてしまった。
戸が閉まると静寂が私達を包み込む。
「雨、強いですね」
「……はい」
「採寸、しましょうか」
そう言って、再度美しい手をすらりと差し出してくれる。私の胸は強く脈打ち、催眠にかかったように、その手に誘われるがまま自分の手を重ねた。