恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


* * *

「と……十夜、さん」
「なんでしょう」
「あ、の……」

(距離が……近いです)
 しんと静まり返った店内に響くのは、メジャーが伸縮する音と、雨が屋根を叩く音。そして、私達の数少ない会話だけ。

「近いとおっしゃりたいならこれは不可抗力ですよ、凛子さん」
「わ、わかってはいるんですがっ……」

 しゅるしゅると、私の身体の周りを往来する十夜さんの腕。時折触れる指先に、自分では制御できないほど心臓が跳ね上がっていた。

「今日は、他にお客さん……来られないんですね」
「雨の日はこんなものです。おかげで商売あがったりですよ」
「あ……! だから、私に浴衣を……!」
「さて、どうでしょうね」

 十夜さんはクスクスと笑って、優美にはぐらかす。そんな風にして、私もこの焦りを隠すことができたらいいのに。
 私は、隠せない緊張とまとわりつく湿気の暑さで、じっとりと汗をかいていた。
 火照りを逃がすようにハァと息を吐くと、それに気付いた十夜さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「すみませんね、エアコンが壊れていまして。除湿が効かないんです」
「……いえ」
「新しいのを買わないと……。どこがいいんでしょう、ね」
「……っ」

 十夜さんが耳元で低く呟く。それは甘い響きとなって、鼓膜から全身へ痺れが走った。
 恥ずかしくなって顔を逸らすけど、意に反して視線はまだ十夜さんから離れてくれない。
 尻目で見た十夜さんの首筋は、細い黒髪が張り付き、汗が玉を結んでいた。その様子は、甘い蜜の香りが漂ってきそうなほど、色っぽい。

「ふ……っ」

 酸素が薄い。十夜さんの体温を孕んだ空気が、私に絡みついてくる。
 息を吐いても、火照りは増すばかりだった。
 浅く呼吸をしながら尻目で十夜さんを見ていると、喉元がコクリと動いた。

「メーカーで迷っている場合じゃないですね、早く買わないと」
「そうですよ……着物によくありません」
「えぇ、そうですね。凛子さんにも、よくない」
「え……?」
「いえ、僕に……でしょうか」

 十夜さんは参ったような笑みを零して私から離れた。
 十夜さんによくない?
 小首を傾げる私をよそに、十夜さんは目を細めながら採寸表へ数字を書き込んだ。

* * *

 浴衣の柄を選び終えた頃には、雨はすっかり止んでいた。

「浴衣の仕立ては一か月後です」
「早いんですね」
「えぇ。凛子さんはお得意様なので、特別に。夏祭りにも間に合いますよ」

 十夜さんは流し目で、意味ありげに笑みを浮かべた。
(夏祭り……十夜さんと一緒に行くことができれば、どれほど楽しいでしょう)
 想像してみたけれど、お祭りの人波に紛れて、私と十夜さんの距離がどんどん離れていくことしか想像できなかった。
 掴めそうで掴めない。
 それなら、いっそ。手を伸ばさない方がいい。
 今日の空気と同じ、湿っぽい感情が押し寄せてくる。私は気分を変えるように口を開いた。

「あの、お代は?」
「それはまた後日」

 十夜さんがさっぱりとした笑顔で言うから、私はお財布をしまった。
 内心で助かったと思う。
 浴衣を買う予定ではなかったので、正直全額払える気がしなかった。

「では、一か月後に」

 十夜さんに頭を下げて、傘立てから一本、薄紅色を抜き取る。
 一か月後が酷く遠い気がする。
 三か月を我慢できたのに……しかもそれ以上の五年が我慢できたのに。
 いつの間に、こんなに多くを望むようになってしまったのだろうか。
 一か月なんて、きっとあっという間だ。
 肩を落とす自分へ言い聞かせ、戸に手を掛けていると。

「凛子さん」
「……っ」

 呼び止められ、弾かれたように振り返った。すると、十夜さんはかんざしを一本、手に取りながら近づいてきた。

「うちの店、かんざしもあるんですよ」
「知ってます……けど?」
「可愛いでしょう」
「はい」
「下駄も、帯も、帯締めも……ほら、可愛い」
「……はぁ」

(どうしたんですか、十夜さん)
 “営業”という二文字が脳裏をかすめたので、私は掻き消すように頭を振った。

「和物は毎日見ていると、とても癒されますよ」
「……毎日、ですか」
「どうですか?」

 営業なのか、ただ誘ってくれているだけなのか。にっこりと微笑む十夜さんからはわからない。
 だけど、毎日会えるなら……そう思うけれど、やはり翠さんが気になる。

「では、たまに」
「そうですか」

 十夜さんは眉を垂れて、ため息混じりに笑った。
 その表情は残念そうにも見える。
(やめてください。そんな顔をされると……自意識過剰になってしまいます)
 昔の傷と共に、熱くなる胸をきつく締めつけられた。

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