恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
三章:恋水


 従順な犬、と例えられるのだろうか。
 私は毎日ではないけれど、誘われた通り三日に一度は十夜さんの元へ通っていた。
 「たまに」と返事をしたというのに。これでは従順どころではない。
 十夜さんのお店へ行っても、私はただ座っているだけ。
 彼はお客さんが来店すれば接客をし、いなければ私の隣に座ってただお茶を飲むだけだ。
 会話はぽつりぽつりと交わす程度で、それでもとても居心地がよく、私にとってはとても幸せな時間。
 和物に癒されるのではなく、十夜さんに癒されていると言っても過言ではないと思う。

「……はぁ」

 今日も、益田呉服店へ行こうと外へ出ると、熱風が身体に纏わりついてきた。
 七月の太陽がコンクリートをジリジリと焦がし、立ち上る熱気が遠くに見える景色を曖昧に見せている。
 益田呉服店はエアコンを買い替えたらしく、店内は涼しい空気で満ちているものの、さすがにこれではバテてしまいそうだ。

「……何か、冷たいものを」

 土曜日なので、今日は時間がある。
 お店へ行く前に、和菓子屋さんへ寄って水まんじゅうを買って行くことにした。
 十夜さんと隣に並んで、彼がいつも出してくれる冷たいお茶と、柔らかな水まんじゅうを頬張る。
 想像するだけで足が弾んだ。

「こんにち……っ!」

 カラリとお店の戸を引くと、思わず声を失ってしまった。

「いらっしゃいませ」

 鈴の音のような声に迎えられてしまったからだ。

「こっ……んにちは、翠さん」

 油断した。
 翠さんは近頃忙しいらしく、私が行った際にはいつもいなかった。
 始めのうちは身構えていたものの、今日に限っては何も考えていなかった。
 私が変に途切れながら挨拶をすると、翠さんは「ご無沙汰してます」と軽やかに挨拶を返してくれた。
 翠さんは濃紺に涼しげな朝顔の薄物(うすもの)を着ている。対する私も麻でできた濃紺色のシャツワンピ。
 全くの別物とは言え、色が被るのは少し気まずい。すぐに十夜さんのことを聞けばよかったのに、私は一瞬気後れしてしまった。

「最近、よく来られているそうですね」

 たしなめるような視線に、背筋が強張る。紙袋を握っていた手に、ギュッと力を込めた。

「……はい」
「でも特に何も用はないんですよね? 浴衣もまだ仕立て中ですし」
「そう……です」

 でも十夜さんが来てもいいと言ってくれた。別に悪いことをしているわけじゃない。
 それなのに、紙袋がズシンと重くなった気がした。

「そういうの、迷惑です」
「……ッ」
「十夜さんはただ、凛子さんが着物や浴衣を買ってくれるお得意様だから優しくしているだけで、本当はお茶相手なんてしたくないんです。十夜さんは優しいので言いませんが、全部愛想です。変に思いこまないでください」

 強く言い放たれ、私は言い返すタイミングを見失ってしまう。
 ……迷惑……私はやっぱり、十夜さんの迷惑になっているのだろうか。
 胃の底がキリキリと痛み、呼吸がうまくできなくなる。

「あ、の……私、これで失礼します」
「十夜さんに会わなくてもいいんですか?」

 私に問いかける翠さんにはどこか余裕さえ感じられる。

「今日は……帰ります。あの、これよかったら」
「ありがとうございます。十夜さんと一緒にいただきますね」

 私がお土産に買っていた水まんじゅうを差し出すと、翠さんはにこやかに受け取った。
 微笑む十夜さんの隣に座って、水まんじゅうを味わうはずだったのに……そこには翠さんが座るのだ。
 でも、優しい十夜さんを困らせたくない。嫌われたくない。
 だから私は……。
 涼しい店内から、蒸し暑い外へと飛び出した。
 浴衣が出来上がるのはちょうど一週間後。
 これで十夜さんに会うのは最後にしようと、心の中でひっそりと決めた。

* * *

 しかし、最後にしようと決めたせいか、それともただ翠さんが怖いせいか。
 結局、一週間後も私は十夜さんの元へ行けていなかった。
 浴衣、どうしよう……。
 部屋のベッドの上で、抜け殻になってため息をついていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。

「凛子。今日、浴衣が出来上がる日じゃなかった?」

 部屋のドアがまたノックも無しに開けられる。
 そんなことは予想済みだった私は、ゴロンと寝返りを打って、うつろな視線を母に向けた。

「いいの。別に……なんとなく、作っただけだから」
「そう? 今週中に取りに行きなさいよ。裕子が夏休みに入るから、こっちに帰って来るって言ってたし。騒がしくなるわよ」
「そっか……もう、夏休みなんだ」

 十夜さんと再会したのは桜の花が咲く前だった。
 それが新緑の季節を越え、梅雨を越え、今は窓辺で風鈴が音を奏でている。
 なんて目まぐるしく、鮮やかな数か月。
 しかし、何か変わったようで何も変わっていない。
 依然として、十夜さんとの関係は“呉服屋さん”と“お客さん”のままなのだ。
 会うのを最後と決めるのなら、もう一度気持ちを伝えてしまおうか。
 もし同じ言葉を返されたら、次こそ十夜さんではない人を……。
 例えば、同い年の男性を……私を子どもと見ない人を好きになればいいのだ。

「他の人を好きになるなんて……できるのかな」

 寝返りながら呟いた言葉は、シーツの波に消えていった。

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