恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
「リンリン、この書類、今日までだっけ?」
定時を三十分過ぎた頃、そろそろ帰ろうと机上を片付けていると、背後から呼びかけられた。
私を“リンリン”と呼ぶのは一人しかいない。
「御堂くん、どうしたの?」
振り返ると、捨てられた子犬のような表情をした御堂くんがいた。
「これ。締めって今日だよな? 今日出さなきゃ今月の請求にならないんだっけ?」
御堂くんは手に持っていた注文書をヒラヒラと揺らし、眉根を深く寄せた。
「さっきお得意さんから電話で注文受けたんだけど、今月の請求がいいって言われたんだよ」
「あ、いいよ。今日までだけど、明日朝一で処理すれば間に合うから」
「ホント!? 助かる! リンリン、頼りになるなぁ。ミサミサと大違いだ」
いたずらっこのような笑みを浮かべて、定時で帰った美里のデスクにチラリと視線を送る。
その様子がおかしくて、私も困ったように笑った。
「そんなことないって。美里も御堂くんに頼まれたら、きっと朝一に処理してたと思うよ」
「いや、ミサミサなら俺のお願いなんて一蹴してたね」
「そうかなぁ。じゃあ、これは明日ちゃんと処理するからね」
「おう、ありがと」
私は御堂くんに“朝一処理!”と書いた付箋を付けた書類を見せ、引き出しにしまった。
そのまま去って行くのかと思ったけれど、彼は何か言いたげにまだその場に立ったままだった。
「御堂くん?」
「ううん、その……前に言ってた話、だけど」
「ん? あぁ……!」
そういえば話があると言われたまま、もう三か月も過ぎていた。
「リンリン、忘れてただろ?」
「えっ、そ、そんなことないよ」
御堂くんがムスッとしたので、慌てて否定する。すると、御堂くんは真意を確かめるように私の顔を覗きこんできた。
「ホントにぃ?」
「うっ……ご、ごめんなさい。すっかり忘れてました……!」
真っ直ぐな瞳で見つめられると嘘もつけない。
仕方がない。いろいろあったんだもの。十夜さんのこととか、十夜さんのこととか、十夜さんのこととか……。
十夜さんの占める割合があまりに大きすぎて、自分に呆れてしまう。
申し訳なくて頭を下げると、御堂くんはハハッと声を上げて笑った。
「まぁ、いいよ。俺も忙しかったし」
「営業は大変だよね。で……話って、どんなこと?」
「あぁ……そうだな。今、話そうかと思ったんだけど……」
御堂くんは口ごもりながら辺りを見渡した。周りが気になるようだ。
定時を過ぎ、事務室はキーボードの音だけが響くくらいでとても静か。だけど、残っている人は思ったよりも多い。聞き耳を立てている人だっているかもしれない。
「また別の日にしようかな。来週あたり、飯でも行かない?」
「あ、うん……いいよ」
「じゃぁ、また日にちと場所は連絡するから。お疲れ」
右手を爽やかに掲げて自分の席へ戻って行った。
「美里は誘わないのかな……?」
いつもご飯へ行く時は三人一緒だった。御堂くんは美里に話を聞かれたくないのだろうか。
わからないので、美里には何も言わず、彼に任せることにした。
* * *
「今日こそ、行く」
日曜日の昼下がり、私は一人で気合いを入れた。
今日は新しいドットのチュニックに、白のカプリパンツを合わせた。
また一着洋服が増えたなんて思いながら、鏡の前で回転しながら何度もチェックした。
「凛子、今日は駅の方に行くの?」
玄関で少しヒールが高めのサンダルを履いていると、母が声を掛けてきた。
「うん、浴衣取りに行こうと思って」
「そう。じゃあ、丁度いいわね。裕子が今日帰って来るらしいから、駅に迎えに行ってあげて」
「今から?」
「あと二時間後くらいに着くらしいから、呉服屋に寄った後でいいんじゃない?」
二時間後か……。
今日、もう一度十夜さんに想いを伝えようと決めていた。
返事はあまり考えたくないけれど、裕子がいれば例え落ち込む結果となっても気が紛れるかもしれない。
「……わかった。じゃあ、行ってきます」
太陽が空高く上る真夏の外へ、私は速くなった鼓動と共に、ヒールを鳴らしながら出て行った。
「ふぅ……」
ギラギラと照りつける太陽は、日傘を差してもなお肌を焼いていくようだ。
地面に頼りなく描かれた日傘の影と共に歩みを進めるけれど、その度に汗がぽつぽつと噴き出てくる。
短い道のりだというのに、商店街の入り口へ着く頃には、うなじから汗が流れ落ちていくのを感じた。
身体も重い。それはうだるような暑さのせいか、この先のことを考えたせいか。
カラフルなアーケードは陽を透かし、ひと気の少ない商店街を幻想的に見せている。
私は日傘をたたんで、十夜さんの待つ益田呉服店に向かった。
「……よし」
商店街の突き当りを右、一番奥にあるお店で足を止めた。
この戸を開ければ十夜さんがいる。もしかしたら、また翠さんが待ち構えているかもしれない。
私はゴクリと音が聞こえそうなほど、強く唾を飲み込んだ。
ここまで来て怖がっていても仕方がない。汗をハンドタオルで押さえてから、戸をゆっくりと開けた。