恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
「こんにちは……」
「いらっしゃいま……おや、凛子さん」
十夜さんは私の姿を確認すると、わずかに目を見開き、すぐに口元を綻ばせた。
店内の反物を整えていた手を止め、ゆるりとこちらへ歩み寄ってくる。
「お待ちしていましたよ」
低く艶やかな声で名を呼ばれ、漆黒の流し目が私を捕える。
「十夜さん……」
「さぁ、どうぞ」
十夜さんは私の側まで来ると、恭しく手招きをしてくれる。
その声が、その姿が……私の全てをキツクしめつけているなんて、きっと彼は知らないだろう。
前を歩く十夜さんを見つめる。
夏でも日焼け知らずの白い肌は、陶器のように美しくて羨ましい。思わず夏用の着物から覗くうなじに見入っていた、が。
「そういえば、凛子さん」
「あっ、はい」
急にこちらを振り向くので、私はビクリと肩を揺らした。
「先日来てくださったのに、すぐに帰られましたね?」
「あ……」
「全く、僕がお手洗いで離れている時に来るなんて。なんと間が悪い」
「すみません」
「いえ、今のは自分を責めていました。水まんじゅう、ありがとうございました。とても美味しかったです。今度は、ぜひ凛子さんと一緒に食べたい」
そう言ってニコリと微笑み、十夜さんは奥の部屋へと入って行った。
(私も……一緒に食べたかったですよ)
悔しさをポツリと心の中で吐き出していると、間もなくして、十夜さんが仕立て上がった浴衣を持って、奥の部屋から戻ってきた。いつものごとく、嬉しそうな顔をしている。
「しかし、ちゃんと来てくださってよかったです。夏祭りは来週の日曜日でしょう。先週待っていたのに、凛子さんはやって来ないし。間に合わないかと思っていたんですよ」
「別に、間に合わなくても構いませんよ」
夏祭りへ行く予定なんてないのだ。だから、間に合わなくても困ることがない。
「僕が構います」
「……え?」
妖艶な瞳が私を見据えてきた。胸がトクンと跳ね上がる。
「一緒に、夏祭りに行きませんか?」
魔法の言葉みたいだった。
その一言で、私の思考は止まってしまう。だけど、翠さんに言われたことが頭を過った。
これも十夜さんのお得意様に対する愛想だろうか。
「あ……の、でも……迷惑なんじゃ……」
「どうして迷惑なんですか?」
「いえ、その……」
「迷惑なら僕から誘いませんよ」
「それはそうですけど……」
言いよどむ私を、十夜さんは楽しそうに見つめてきた。
私と十夜さんが夏祭り? 浴衣を着て、二人並んで下駄でからんころんと?
とてもじゃないけど想像できない。それでも……。
「行きたい……です」
気が付いたら私は頷いていた。
「良かった。断られたら一週間寝込むところでした」
「大袈裟です」
「いいえ、二週間寝込んでもおかしくないくらいですよ」
ふふふと柔らかに笑い、綺麗に包んだ浴衣を差し出してくれた。
「これは差し上げますので、ぜひ着てくださいね」
「えっ……これって……、浴衣をですか!? い、いただけません!」
私が手と顔を全力で振って断ると、十夜さんは瞳を悲しげな色に染めた。
「気に入らなかったですか?」
「そんなわけないです!」
「僕からもらうのが嫌ですか?」
「そうではなくて……」
「僕があげたいと言っているのに?」
「――っ」
十夜さんは残念そうに肩を竦め、しゅんと項垂れる。
そんな顔をされると……私はもう、何も言えなくなる。
(ずるいです……表情一つで、私のすべてをかき乱すなんて……)
私は差し出された浴衣をおずおずと受け取った。
「では、有難く……」
「はい。きっとお似合いになりますよ」
瞳の色は一変して嬉々とした色になった。
十夜さんの機嫌を損ねなくて、ホッとしたばかりだったのに、にこやかに微笑まれては私の心臓がもたない。
(だから……ずるいんですよ、十夜さん。)
悔しいような、嬉しいような……もどかしい気持ちになり胸を軽く抑えた。
「凛子さん、今日はお時間ありますか?」
「あ、いえ。今日は妹を駅に迎えに行かなくちゃいけなくて……」
「そうですか。ではお茶ができませんね。残念だ」
「私も……残念です」
社交辞令だと自分に言い聞かせても、心にじわりと溢れるものがある。
首裏は気温の暑さではないもので火照りだし、私は小さく仰いだ。
……想いを伝えるのはまた今度にしよう。
思いもよらぬことに、夏祭りを一緒に行けることになった。それにこの火照った顔では、うまく言える気もしない。
「では、十夜さん。ありがとうございました」
「えぇ、夏祭り……楽しみにしてますね」
十夜さんの涼しげな笑みを受け、私はお店を後にした。
そのまま、半ば浮かれた気分で裕子を迎えに行くと、彼女はすでに駅で待っていた。
「遅いよ、お姉ちゃん」
「ごめんね、ちょっと寄り道してたら遅くなっちゃった」
「ふーん……寄り道、ねぇ。で、その荷物は何?」
裕子は私を見るなり、手に持っていた大きな荷物に食いついてくる。
「浴衣だけど」
「あー……若旦那だ。ついつい買っちゃったんだ!」
「と、十夜さんは関係ないよ」
私は頬を膨らませながら反論したけど、裕子に嘘をついてもお見通し。
「じゃあ、そういうことにしておいてあげる」
裕子は意地悪に笑うと、先を歩き出した。
「でも浴衣、いいなぁ。夏祭り行くの?」
「うん……まぁ、ね」
返事をしながらも、頭には夜店が並ぶ道を十夜さんと歩いている姿が浮かぶ。
私の隣に、浴衣姿の十夜さん……。
かぁっと熱が全身を駆け巡る。私は火照る顔を、裕子に気付かれないよう、半歩後ろを歩いた。
その甲斐あってか、裕子は私の様子に気付いていない。アーケードを仰ぎ見ながら思いついたように口を開いた。
「私も浴衣買おうかな。こっちの友達と夏祭り行く約束したんだ」
「夏祭りに間に合わせるなら、今から好きな柄を選んで仕立てるっていうのは難しいよ」
「そっか……じゃあ巾着か何か、新しい小物でも買おうかな。益田呉服店に可愛い小物もあったし。お姉ちゃん、明日の仕事終わりについてきてよ」
十夜さんに会えるのは嬉しい。それに翠さんがいても、ちゃんとお客として来ているので、何も言って来ないだろう。
「うん、いいよ。あ、でも明日は御堂くんとご飯だから……明後日はどう?」
「御堂くんって、同期の人だっけ。あれ~、若旦那はぁ?」
先を歩いていた裕子は振り返り、にやにやと笑いながら聞いてきた。
「み、御堂くんはただの同期。十夜さんは……呉服屋さん!」
十夜さんを、“ただの”呉服屋さん、と言ってしまうのは、私の中で募り続けている想いによってはばかられた。
「ふーん。“同期”と“呉服屋さん”ねぇ……」
「もう、ほら……行くよ」
私は、ニヤニヤしている裕子をかわし、今度は先を歩いてバス停へ向かった。