恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
――一時間、遅刻。
今日は締日でもないのにやたらと忙しく、目の前にある書類を片付けていると、いつの間にか定時を過ぎていた。
御堂くんと約束していた食事の日だというのに。御堂くんはちゃんと早めに上がり、先にお店に行っていると言ってくれた。
私が遅刻では、早く仕事を終わらせた御堂くんの努力が無駄になる。
美里も、私がバタバタとしている間に帰ってしまった。結局、食事にいるのかどうか、わからずじまい。
「よし……急がなくちゃ」
デスク周りを綺麗にし、私は事務室を飛び出した。
御堂くんとは駅前の居酒屋に現地集合。
お店は古めかしい木造の建物で、全席個室。襖で区切られた部屋は、座敷と重厚感のある座卓で、料亭のような雰囲気がある。それでも料金はリーズナブルなので、若い人達にも人気があるお店だ。
「ごめんね、遅れて」
私は、店員に案内してもらった部屋へ入るなり、顔の前で両手を合わせて謝った。チラリと片目だけで御堂くんの様子を窺うと……。
「遅いよ、凛子!」
「……み、美里!?」
御堂くんの隣には、いたずらに笑う美里がいた。
「悪い。リンリンに言うの、忘れてた。ミサミサも誘ってたんだ」
「ううん。私も美里誘わないのかな、って思ってたから」
御堂くんと美里が座っている正面に私も腰を下ろした。二人の前には既に空いたビールグラスが置かれている。
「私も何か飲もうかな」
カクテルのページを見ていると、二人から「あまり飲みすぎるなよ」と、声を揃えて注意された。
歓迎会の時のことがあるだけに反論することもできず、私は小さく頷く。
とりあえず目に着いたファジーネーブルを注文すると、二人は追加でビールを注文した。
「二人とも、飲みすぎないでよ」
「リンリンじゃないから大丈夫」
お返しに注意したら、やっぱり言い返されてしまった。
その後、お酒が運ばれてきて、会社でのことや上司の愚痴などを零しながら、創作料理を口へ運んだ。
美味しいご飯とお酒、気の合う同期。たくさん笑っていると、仕事でせかせかしていた気持ちも、しだいにゆったりと解けていった。
人心地付いた頃、御堂くんが様子を窺うように口を開いた。
「……あのさ、リンリンに話があるって言ったじゃん?」
「あ、うん。そうだよ、それが本題だった」
「そうなんだ。で、話すけど……」
御堂くんは崩していた足を急に整えて正座し、背筋を伸ばした。
そんな風にされると、なんだか私も改まった気持ちになって、きちんと聞かなくてはと軽く緊張してしまう。
そうなると……。
「あっ、ま、待って。先にお手洗い行っていい?」
ちょっと飲み過ぎたみたい。お手洗いに行って落ち着いた状態じゃないと、御堂くんに失礼な気がした。
「凛子、タイミング悪すぎ」
美里は、姿勢を正した御堂くんを見ても緊張していないのか、お腹を抱えてケラケラ笑っていた。
「トイレは……」
御堂くんに謝ってから部屋を出て、お手洗いを探しながら廊下を歩く。他の部屋からはコンパの騒ぎ声や、暑気払いの挨拶等が聞こえてきた。
皆楽しそうだな……なんて思いながら足を進めていると、ある部屋から気になる会話が聞こえてきた。
「十夜さん、披露宴はどうします?」
軽やかな鈴の音のような声に、私の足は止まる。
……十夜……さん?
まさか。
でも“トウヤ”なんて名前の人、なかなかいない。しかもこの声は、翠さん……。
それよりも、披露宴って何――?
私はその場から動けなくなり、頼りなさげに止まった足の爪先を、ただ見つめるしかできなかった。
(だって……十夜さん、翠さんとは何もないって……言ったじゃないですか)
真っ暗な暗闇に立っているようだった。
そのまま呆然としていると、前から料理やビール瓶をお盆に乗せた店員がやってきた。
私を邪魔そうに避けながら、その部屋の前で止まる。
「失礼しまーす」
明るい店員の声と共に、襖がすらりと横へ引かれる。無意識に部屋の中へ視線を走らせてしまう……と。
「――ッ!」
やっぱり。
部屋の中にいたのは十夜さんと翠さんだった。その二人を囲うように、二人の両親らしき男性と女性がいる。皆、着物を着ていて、婚前の両家顔合わせのような状況だった。
信じたくない、でも……私は十夜さんに遊ばれていたのかもしれない。
目の奥が熱くなり、鼓動は速さと鋭さを増して、痛いほど打ち付けてくる。
嫌だ……そんなの、嫌だ。
私は目の前の光景から逃げたくて、足をもつれさせながらも歩き出した。
「……凛子さん……?」
私に気付いた十夜さんが名前を呼んだ。しかし、その呼びかけに止まることはできない。
「凛子さんっ!」
後ろからガタガタと座卓にぶつかるような音がして、慌ただしい足音が廊下に響いた。
周りの人達は、どうしたのかと不思議そうな声を上げている。
「凛子さん、待ちなさい」
「や……っ」
お手洗いに入る直前で、ぐっと腕を掴まれる。いつもより低く威圧的な声音に、十夜さんの違う一面を見た気がした。
「凛子さん、どうして逃げるんですか?」
「……別に、なんでもありません」
十夜さんの顔が近づき、私はそれから逃れるように視線を逸らした。
「なんでもない、という顔には見えませんよ」
「……」
私は唇を噛み、鼻をスンと鳴らした。
「結婚……なさるんでしょう?」
「結婚?」
十夜さんは拍子抜けしたように目を丸くした。
私の腕から手を離すと、小首を傾げながら顎に手を当てる。思案する表情が、思い当たらないようにも、言い訳を考えているようにも見えてしまう。
そんな十夜さんの顔を見たくなくて、私は俯いた。目の奥が熱い。泣いてはダメだと思うのに、一度でも瞬きすれば、涙が落ちてしまいそうだった。
「あぁ、先ほどの話ですね」
十夜さんがゆっくりと口を開く。すると、小さな足音が近くで止まる気配がした。
「結婚ならしますよ」
鈴の音に、全身が固まる。現れたのは翠さんだった。