恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
「お一人ですか?」
「……え?」
掛けられた声に、私の動きが止まる。
私が巾着の中に手を入れたままでいると、綺麗に折りたたまれた紺色のハンカチが差し出された。その手は白く、すらりと長い指をしている。
低く甘い声に、この手……いや、でも……まさか。
一瞬のうちに、何度も仮定を上げては打ち消していく。しかし、鼓動は高鳴るばかり。
ゆっくり、高鳴りと確信を照らし合わせながら視線をあげる……と。
「……なんでっ」
言葉に詰まり、巾着を探っていた手で口元を覆う。
目の前には会いたいと願った十夜さんが、鉄紺(てつこん)の浴衣を身に纏い立っていた。
「まずは涙を拭いてください。凛子さんのそんな顔、見ていられないんです」
十夜さんは困ったように眉を垂れて笑った。
「それとも僕が拭きましょうか?」
その一言で、全身が一気に熱を持つ。夏の暑さではない、身体の奥から湧きあがる熱。
涙を拭くなんて、十夜さんなら悪戯で本当にしかねない。これ以上熱くなっては、倒れてしまう。
私はおずおずと差し出されたハンカチに手を伸ばした。
「あ、あのっ……お借りします」
「残念、ご自分で拭かれるのですね」
クスクスと笑う声が耳をくすぐる。
とても心地よくて、惨めさで冷え切っていた胸の奥も、じわりと温かくなっていくのがわかった。
「でも、なんでここに……」
「妹さんから聞きました。僕の誘いを断って、同僚の男性とお祭りに行くと言っていた……と」
「あ……」
裕子に同期の人達と行くと伝えていたのを思い出した。十夜さんに言ってしまったんだ。しかも御堂くんのことだけ。
「ち、違うんです。他にも同期の女の子がいて……ですが、私はもう帰ろうかと」
十夜さんの誘いはちゃんと断っているし、なにも悪いことをしていないのに言い訳をしているような気がしてくる。
ハンカチを持ったままの手を左右に振って否定すると、十夜さんはほっと短く息を吐いた。
「それならよかった……では、今はどうしてお一人で?」
「あのっ……それは、いろいろと……ですね」
二人のことを言ったところで、十夜さんは美里のことも御堂くんのことも知らない。だから話しても問題ないだろうけど、なんだかそういった男女の話をするのが恥ずかしくなってやめた。
「いろいろ……ですか」
「いろいろです」
「ふーむ……」
十夜さんは顎に手を当て、私を覗きこんできた。
羞恥に火照る顔を見られたくなくて逸らすと、十夜さんが追いかけるようにまた覗き込んでくる。
顔だけで追いかけっこをしていても、すぐに逃げ場はなくなり、しだいに俯くとクスリと笑われてしまった。
「まぁ……いいです、理由はなんでも」
人の顔を覗きこんで詮索しておいて、なんでもいいなんてあんまりではないか。
私がキッと睨み付けるように十夜さんの方へ向き直ると、瞳を緩やかに細められ、気が削がれた。
「なんでも、いいだなんて……」
「こうして、凛子さんと二人きりになれたので」
「……っ!」
唇の美しい流線から紡がれる言葉。それはいつだって容易く私の心を捕えていく。
(だから……いつもいつもずるいです……十夜さん)
私の気持ちを察することなく、十夜さんは頭の上にポンと手を乗せた。
「本当に良かった、無事に出会えて」
「十夜さん……」
意地悪に艶めいていた瞳が、安堵の色を浮かべる。
夜のお祭りとなると、お酒を飲んで気が大きくなっている人がいたり、ちょっと悪そうなお兄さんがいたりと、女の人が一人でうろうろしていいような場所ではない。
私はそんなことも考えず、ただ美里と御堂くんから離れたい一心でここまで来てしまった。
夜店の裏という、ひと気が少なく、薄暗い場所へ。
なんと危ないことをしたのか。
反省するとともに、十夜さんの心配が少しだけ嬉しい。でもその気持ちは見せてはいけないと思い、眉を寄せることで隠した。
「ごめんなさい……」
「わかればよろしい」
十夜さんが微笑み、静かに頷いた。それから何か思いついたように表情を変える。
「いえ、やっぱりよくありません」
「え?」
「僕は凛子さんに心配をかけられました」
「……は、はい」
「お詫びをしていただけませんか」
「お、お詫び……ですか」
「僕と一緒にお祭りを回ってもらいます」
「え?」
それは、私にとってはご褒美のようなもので。十夜さんにとってお詫びになるのかどうか。
(そもそも……私が隣に並んでいいのでしょうか……)
ある人物が頭を過る。
その名を口にすれば、今いる十夜さんは消えてしまいそうな気さえした。だけど無視できない。――翠さんという存在。
「あの十夜さん……ここへはお一人で?」
「えぇ、もちろん」
「でも……あの、翠さんは……?」
「……どうして、翠さんですか?」
十夜さんは思い出したくないことが頭を過ったらしく、渋面を作った。
「ああ、そう言えば、誤解をさせたままでしたね」
「誤解……ですか?」
「先日、居酒屋でお会いした時のことです」
十夜さんと翠さん、そして二人の両親がいた時の話だ。披露宴の話をしていて、私はそれがショックで話も聞かずに去ってしまった。
結婚の話をされると思い、十夜さんのことを避けていたけれど……彼が今ここにいること、彼の表情から、私の予想はもしかしたら違うのかもしれない。
ちゃんと、十夜さんに向き合わなければ。
気合いを入れた私の顔が怒ったように見えたのか、十夜さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当に、すみませんでした。披露宴というのは、僕の両親と翠さんのご両親、共通の知り合いである茶道家の先生の披露宴についてです。盛大に開かれるので、直接の知り合いでない僕や彼女にも招待状が来ていて。それで、皆で話し合っていたのです」
「お二人の披露宴では……?」
「断じてありません」
十夜さんはキッパリと言い切る。すぐに頭の整理がつかず、私は何度も目を瞬かせた。
私の勘違い……全て、私の……。
「すみません……私が早とちりしただけだったんですね」
恥ずかしくて頬が熱くなる。辺りが暗くて良かった。
「いえ、僕が悪いんです。貴女に愛想さえいらないと言われ、自分が嫌われたのだとショックを受けてしまった。その場で動けなくなるなんて……情けない」
十夜さんが自嘲気味に笑う。
「十夜さん……」
「貴女を追いかけて、無理やりにでも引き止めて誤解を解くべきだったのに」
十夜さんのトーンが落ちた声に、私は首を振った。
「私も、自分が傷つくことを怖がらず、ちゃんと話を聞けばよかったんです」
どちらも、臆病だったからすれ違った。
二人で謝り合い、口を噤む。お祭りの喧噪が、頭の片隅で響いていた。
しばらく黙り込んでいると、十夜さんが肩の力を抜くように軽く息を吐いた。
「さて、誤解も解けたことですし……お祭りを楽しみましょうか、凛子さん」
「はい」
明るい声で話しかけられ、私もホッと息を吐く。自分が思っていた以上に、緊張していたようだ。
私が頷くと、十夜さんは、ゆっくりとお祭りの人混みへと歩き出した。
「あ、待ってください」
私が置いて行かれまいと駆け出すと、十夜さんは少しだけ振り向き、“おいで”と呼ぶように瞳を細めた。夜店の明かりが、その姿を妖艶に照らし出す。
「――ッ」
美しい彼に魅せられたのか、途端に身体が緊張し、動かなくなる。横に並ぶと更に緊張が増してしまいそう。
黙って後ろを歩くことにすると、十夜さんは私のことを確かめるように振り返る。目が合うと小さく笑った。
二人の沈黙を埋めるのは、からんころん、と下駄が奏でる音。時折私達の間を人が通り抜け、その度に儚く妖しい姿を見失いそうになる。
私が少しだけ距離を詰めると、十夜さんはそっと口を開いた。
「凛子さん、林檎飴を食べませんか」
「え?」
「それとも綿飴がいいですか?」
「……林檎飴がいいです」
「それから金魚すくいをしましょう。ヨーヨー釣りもいいですね。凛子さんのお好きなヨーヨーを取って差し上げますよ」
「とっ、十夜さん……私を子供扱いしていませんか」
「いいえ、僕がはしゃいでいるだけです」
十夜さんは自嘲気味に笑った。
はしゃいでいる? 私と一緒にいて?
きっと私の高揚感とは比べものにならないだろうけど、少しだけ嬉しかった。