恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
『これから夜空に八千発の花火が……』
一軒の屋台で林檎飴を買っていると、花火の打ち上げが開始されるというアナウンスが流れた。
「花火が上がりますね。土手の方へ行きましょうか」
「はい……あ、あの」
「なんですか?」
「十夜さんは林檎飴食べないんですか? 私だけ買ってもらって……」
十夜さんに買ってもらった林檎飴。甘い飴がからめられた丸い林檎が、艶々と輝いている。それを見つめながら申し訳なく呟くと、十夜さんが林檎飴と同じくらい赤い舌でぺろりと舐めた。
反射的に身体が動き、十夜さんから素早く飴を離す。
「僕は凛子さんからいただくので構いません」
飴でてらてらと濡れた唇が、緩やかな弧を描いた。
(……私が構います)
言いたくても、呼吸が整わず言葉が出てこない。胸元を押さえ、鼓動を落ち着かせるように深く息を吐いた。
十夜さんは、私の様子を楽しむようにクツクツと喉奥で笑う。
「では、花火がよく見えるところへ行きましょうか」
「はい」
十夜さんの誘いに頷いて足を一歩進めた。その瞬間、ドンッと心臓を叩かれたかのように深い音が響いてきた。
「あ……」
頭上が瞬時に明るくなる。見上げた夜空には光の華が咲いていた。
パラパラパラ……と、か細げな音を立てながら花びらが散ると、またドンッと新たな華が咲く。色とりどりに飾られる夜の空。周りの人達も足を止めて花火に歓声を上げていた。
「……綺麗」
十夜さんも花火を見ているだろうか、と視線を元へ戻そうとした時。
「きゃっ」
何かにグイッと腕を引かれた。
手からは林檎飴が落ち、身体がバランスを崩して倒れそうになる。
何が起こったのだろうか。
倒れそうになったところを踏ん張り、辺りに視線を走らせた。
「……翠、さん?」
視線を向けた先には、黒地に蜻蛉が飛び交う浴衣を着た翠さんがいた。
髪も、いつもは丸みのあるボブにアクセサリーをしているけど、今日は編み込みをしてうなじを見せている。
大人っぽい。しかしその顔は綺麗に歪んでいた。
「貴女なんて、はぐれてしまえばいい」
「翠さん」
「十夜さんとはぐれて、見失って……ずっと会わなければいいのに」
夜空には相変わらず花火が上がっていて、更に濃く歪んだ翠さんの顔を鮮やかに照らし続ける。
「本当なら十夜さんは私とここへ来るはずだった」
「約束、されてたんですか?」
「そ、そんなこと……貴女に関係ないでしょう」
約束はしていなかったのだろうか。翠さんはわずかに狼狽えた。その目には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。
花火が打ち上がる音だけが、やたらと耳に響いた。
「凛子さんは、十夜さんのことが好き?」
「え……」
「外見だけじゃなくて、中身も。あの人の仕事も、行動も。全部全部」
「……翠さん」
「私は全部好きよ。十夜さんの仕草も、表情も、呼吸さえも。憎らしいくらい、好き」
翠さんが十夜さんの姿を思い浮かべるように目を閉じると、涙が静かに頬を伝った。
「私も……好き」
想いは測れない。だけど、私は私なりに十夜さんのことを誰にも負けないくらい……。
「好き」
言葉にすると、想いは胸の中に溶け込んで更に強くなる。もう一度、十夜さんにこの気持ちを伝えたい。
「それは憧れではなく、ですか?」
「――ッ!」
下駄の音と共に現れた紺色の影。
「十夜さん……!」
翠さんと一緒に声を上げて現れた人物を見ると、穏やかに笑う十夜さんがいた。
十夜さんは漆黒の瞳で私を見つめると、細く息を吐いた。
「どこへ行ったのかと思いました」
「……すみません」
「いえ、謝るなら翠さんでしょう」
「私は謝りません」
翠さんは頬を伝った涙を拭い、ふいと顔を逸らした。
「元はと言えば、十夜さんが私の誘いを断ったから悪いんです」
唇を噛み締め、また零れ落ちてしまいそうな涙を堪えている。
「僕にも、一緒に夏祭りへ行きたいと思った……大切な人がいる。だから、申し訳ないと断ったでしょう」
十夜さんの言葉は凛として響き、胸をトクンと高鳴らせた。
(大切な人……)
耳に焼き付いて離れない。翠さんにとっては、違った意味で痛いほどだろう。
「……だって……私だって、十夜さんのことが好きなんです」
「それは、応えられないと何度も……」
「それでも好きなんです」
「だからと言って、僕の恋路の邪魔をするのですか」
「違います。私は私の恋路を貫いているんです」
「……しかし、それは一方通行ですよ」
言葉の往来に合わせ、私の視線は二人の顔を行ったり来たり。
十夜さんは申し訳なさに顔を歪め、翠さんの瞳からは大粒の涙が零れた。
翠さんは両手で顔を覆ったけど、止まらない想いが、隙間からダイヤモンドのように輝く雫となって落ちていく。
「十夜さんは……ずるい」
「……」
「ずるくて、美しくて。苦しいほど…………大嫌い」
そう言い放つと、翠さんは踵を返した。
「翠さん……!」
私の呼びかけに、翠さんが足を止めるはずもなく。その姿はすぐに人混みに紛れて見えなくなった。