恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
番外編:お花見


 ――シュッシュッ、キュッ。
 衣擦れの音がして、きつく締め上げられる。

「んっ……」
「苦しいですか? もっと声、出してもいいんですよ」

 十夜さんが耳元で囁く。低く艶を孕んだ声は心臓に悪い。
 付き合いだして九ヶ月経ったというのに。未だに私は十夜さんの醸し出す色気に慣れないでいた。
 変な吐息を漏らしてしまったけれど、十夜さんと“そういう”ことをしていたわけでは無い。

「凛子さん、綺麗ですよ」

 今日は一緒にお花見へ行こうと、十夜さんの家で着付けをしてもらっていただけ。
 十夜さんはお店を店主であるお父様に任せ、この日のために休みを取ってくれていた。

 十二畳のがらんとした部屋に、焦げ茶色の木枠で囲われた姿見と、帯や紐を置くための椅子がある。少し寂しげな空間に私と十夜さん、二人きり。
 縁側には松の木が温かな日差しを受け、青々とした梢を春風に委ねていた。

「やはり、この色は凛子さんによく似合う」

 着付けを終えた十夜さんが、すぐ側でにっこりと微笑む。

「あ……っ、ありがとうございます」

 私は熱くなる頬を隠すように、俯きながらお礼を言った。
 私が着ているのは、薄桃色の布地に、白や薄紫に色付いた桜が舞う優しい色合いの着物。これは十夜さんのお母様が着ていたもので、十夜さんが仕立て直してくれた。

「でも、いいんでしょうか。お母様のお着物をいただいても」
「構いません。母には少々若すぎる色ですから」

 十夜さんは愛しむかのように、そっと頭をなででくれた。大きな掌は温かく、少しだけ不安がなくなる。

「でも、……んんっ」

 私が本当にもらってもいいのかと再度確認しようとすると、唇を温かなもので塞がれた。

「ふぁ……んっ……」

 塞いできたのは十夜さんの唇だった。舌を絡め、チュッと吸い上げてから解放される。たった一瞬だというのに、早くも息が上がってしまった。

「と、やさん……」

 唇を離した十夜さんを見上げると、黒髪をサラリと揺らして艶然と微笑まれる。

「大人しくもらっておきなさい」
「は、はい……」
「よろしい。いいお返事ですね」

 十夜さんは満足そうに頷くと、私の火照る頬に触れた。長い指が、軽く撫ぜてくる。
 やはり、慣れない。
 触れられたところから、熱が増していくようだった。顔はきっと真っ赤になっているだろう。

「あ、ありがとうございます。十夜さん」
「どういたしまして。凛子さんが笑ってくれさえすれば、僕は何でもしますよ」
「そんな……」

(何でもだなんて……これ以上、何かを求めるのは贅沢な気がします)
 ただでさえ、大好きな十夜さんとのお花見。しかもお母様の着物を譲ってもらって、着つけてもらって……隣には桜に負けないほどの十夜さん。なんて贅沢な春だろうか。

「ありませんか? して欲しいこと」

 十夜さんは尋ねながら、サイドでまとめていた私の髪に、小さな花がついた髪飾りをつけてくれる。歩く度に揺れる仕掛けになっているようだ。

「十夜さんにして欲しいこと……ですか」
「はい。凛子さんのお願いを聞いてみたい」

 十夜さんは髪飾りの花を指でちょんと触り、小首を傾げる。夜露に濡れたような黒髪が、大きな窓から差し込む日差しに透けてキラキラと輝いた。
 聞いてみたいと言われれば、贅沢だとしても何かお願いを言った方がいいのだろう。

 でも、デートはこれからするし、髪飾りもつけてもらったし、抱き締めてもらうには着崩れしてしまうし……。いろいろと考えるけれど、これというお願いが思いつかない。

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