恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
桜並木が終わるとそこは閑静な住宅街になっていた。こんなところに御茶屋さんがあるのかと思ったけれど、民家に埋もれるように、ひっそりと看板が見えた。
木造で作られた小さな平屋建て、木の看板には『茶屋』の文字。入口は開けられており、深緑の暖簾(のれん)がゆらりと風に揺れている。
「こんにちは」
十夜さんが、暖簾をくぐり挨拶をする。店は二人用のテーブル席が四つほどと、四人席が二つ。丁度三時近くということもあってか、空席はわずかだった。
「いらっしゃいませ」
鈴の音のような声が私達を迎えてくれる。聞き覚えのある声に、嫌な予感がした。
「と、十夜さん……」
十夜さんの名を呼ぶ女性……お店には翠さんがいた。
「……翠さん?」
十夜さんも知らなかったようで、驚いた様子だった。
隣に立った私の胸には、消え去ったはずのモヤモヤがまた顔を出した。身体が重くなり、動けなくなる。
花火大会のあの日から、翠さんには会っていなかった。益田呉服店の手伝いも来なくなったらしく、十夜さんも会っていなかったらしい。
翠さんはお店の制服であろう紺色の和装をしていて、ボブの黒髪を耳にかけている。長い睫毛を震わせ、動揺しているようだ。
「空いている席へどうぞ」
その動揺を隠すように、キッと眉を吊り上げるとツンと言い放つ。鋭い視線を向けられ、私はますます身体を強張らせた。
「もちろん、お帰りいただいても結構ですけど」
翠さんは小声でそう言うと、クルリと背を向けた。
なんとも言えない威圧感がある。だけど、背を向ける直前に見せた瞳が切なげに思え、以前ほど怖さはなくなっていた。
「十夜さん、お茶しましょう」
このまま帰ってはいけない気がする。翠さんと気まずいままなのは嫌だし、翠さんも関係が途絶えてしまうのを望んではいないと思う。
私の返事を聞いた十夜さんは、小さく頷き、穏やかに微笑んでくれた。
私達が空いていた二人席へ腰を下ろすと、翠さんがお水とお品書きを持ってきてくれる。
「どうぞ」
不機嫌そうに差し出されたグラスに、少しだけ懐かしさを感じてしまう。時間が解決してくれることもあるということだろうか。
十夜さんはお品書きを受け取りながら、翠さんに話しかけた。
「最近来ないと思ったら、こちらでお仕事されていたんですね」
「……はい」
いつもと変わらない調子の十夜さんに、翠さんの方が戸惑っているように見えた。
「私にもやりたいことがあるんです」
「そうですよね。翠さんは和風のカフェが開きたいと昔から仰ってましたね」
「母の茶道教室の隣に開きます。益田呉服店がある商店街には絶対に開きませんから」
「それは残念だ。しかしご贔屓にしてくださいね」
私の知らない、十夜さんと翠さんだけのお話。心なしか弾んでいる会話。聞きたくないような、聞いていたいような。
だけど、自分の存在で気まずくならず、会話をしてくれることは嬉しいとも思う。
「私がいなくて益田呉服店も大変でしょう」
翠さんはフフンと満足気に言ってみせた。
益田呉服店の店主である十夜さんのお父様はあまり店に出てこない。確かに十夜さんは大変かもしれない。
チラリと十夜さんを見るけど、表情は変わっていない。こういう時に表情が変わる人ではないと思っていたけれど、もっと彼の本音がわかるようになりたいと思う。
「お店の方は大丈夫ですよ。だから、翠さんは気にせず、やりたいことをするといい」
「……っそ、そう、ですか。で、ご注文は?」
十夜さんの答えを聞いた翠さんは口を尖らせ、急に仕事モードへ切り替えた。十夜さんの変化はわかりにくいけれど、翠さんの気持ちはわかってしまった。
本当は「翠さんがいないと大変だ」と、求められたかったはず。例え自分のことを好きじゃなくてもいい、求められることが嬉しい。
(だけど十夜さんは……優しく突き放すんですね)
彼女としては安心したけれど、自分が翠さんの立場だったら……きっと苦しくて、辛くて、ここから逃げ出したくなっていたと思う。
私達が御団子と御抹茶のセットを注文すると、翠さんは足早に去って行った。
しばらくすると、翠さんではなく若い男の人が御抹茶のセットを持ってやって来た。
普段は料理を作っている方なのか、紺色の割烹着に白い前掛けをしている。髪はキッチリと白い和帽子に覆われ、キリリとした眉と涼しげな目元が印象的な人だ。
「お待たせしました」
低い声で御団子と御抹茶のセットを乗せたおぼんが差し出される。その声は、その男性の元からの声と言うより怒気を孕んでいるよう。顔を見ると、やっぱり口をヘの字に曲げていた。
こんな愛想の悪い接客は良くないと思うけれど。私は変に思いながら、肩を竦めた。
テーブルに置かれた御団子はとても美味しそうで、御抹茶も色鮮やかで春らしい。男の人は私に続いて十夜さんの方へセットを置く……と。
「あんまり、翠さんに関わらないでください」
(翠さん……?)
不思議に思いながら男性を見ると、十夜さんに襲いかかりそうなほどの目つきで睨み付けていた。
私は思わず竦みあがってしまったが、十夜さんは恐がるでもなく、そんな態度に怒るでもなく、やっぱり平然としている。
(……というより、どこかにこやかにさえ見えます)
「随分と……乱暴な方ですね」
男性が去った後、思わず小声で言ってしまう。しかし十夜さんは、にこやかな表情を更に崩し、クスクスと笑いだした。
「え……と、何か?」
自分が何か可笑しなことでも言ったのだろうか。小首を傾げて尋ねると、十夜さんは小さく口を開いた。
「いえいえ、翠さんも早々に新しい恋が見つかるんじゃないでしょうか」
「……え? あっ……そういうことですか」
あの男性の態度は、翠さんが好きだった十夜さんに対する嫉妬からだったのだ。
先ほどの男性を目で追うと、翠さんが彼の脇腹を小突いていた。怒っているような様子だけど、顔は頬を赤く染めていて、どこか嬉しそう。
「うまくいくといいですね」
「そうですね」
二人で笑みを浮かべ、御抹茶を口へ運んだ。