恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
ショッピングモールへ出店する当日。
土曜日で仕事が休みということもあり、早朝から十夜さんを手伝うことにした。
昨日、会場のセッティングは全てし終えているらしく、十夜さんは開店する直前に来てくれればいいと言ってくれていた。だけど私が落ち着かなくて、彼と一緒に出勤することにした。それにこういった経験は初めてなので、なんだか嬉しい。
朝から晩まで、十夜さんと一緒。
浮かれてはいけないと思いつつも、やっぱり心は弾んでいた。
「こんな早朝からすみません」
「いいんです。私も会場に慣れておきたいので」
(本当は十夜さんと一緒に出勤したかったのです)
益田呉服店に着くと、彼が運転するシルバーのセダンに乗り込み二人でショッピングモールへ向かう。運転する十夜さんの横顔は、凛々しくてカッコイイ。デートの時に何度か見たことはあったけれど、その姿を見たかったというのも朝から手伝うことを決めた理由の一つだったりする。……なんて、そんなことは言えないけど。
「会場に慣れておきたい……ですか」
私の答えを聞いた十夜さんは、眉を八の字に下げてため息を吐いた。
「凛子さんはちゃんと仕事のことを考えてくれてるんですね」
「え……っと、どういう意味でしょう」
褒めてくれているのだろうか。それにしてはどこか悩ましげな表情。
何か気がかりなことがあるのかと、私は首を傾げて尋ねた。
「僕は、凛子さんとこんなに朝早くから夜まで一緒にいられるのかと……邪な気持ちでいっぱいです」
「と、十夜さん……っ」
自嘲するように笑う十夜さんに、私は頬が熱くなるのを感じた。
私も同じ気持ちだと言おうとしたが、会場に到着してしまったので、その気持ちをしまいこんだ。
* * *
土曜日だからか、ショッピングモールは大勢の人で溢れていた。
広告やホームページで浴衣の特集記事が掲載されていたらしく、十夜さんのお店は二階の端にある特設会場だというのに、お客さんが多い。
「昼には母もやってきますので、そうすれば少し落ち着くと思います」
「あ……はい」
十夜さんがお客さんの浴衣を畳紙に包みながら教えてくれる。その隣で会計をしていた私は、身体が強張ってしまった。
十夜さんのお母様――。
あれほど益田呉服店に行っているものの、十夜さんのご両親に会ったことがなかった。
いや、正確に言えば一度だけ会ったことがある……のかもしれない。
私が他の人の結婚披露宴の話を、十夜さんと翠さんの話だと勘違いした時だ。恐らく立ち聞きしてしまったことはわかってしまっただろう。
顔は見えなかったし、よく覚えていないが、失礼なことをしてしまったという気持ちはある。何より、翠さんとは両親共々仲が良さそう。それが気になり、私は十夜さんのご両親に会うのが怖かった。
「緊張しなくても大丈夫ですよ。あまり厳しい母ではないので」
お客さんを見送った十夜さんが、緊張している私に気付いて声をかけてくれる。
「本当はこうして会う前に、きちんと紹介したかったのですが……なんせ、準備が忙しくて。申し訳ない」
十夜さんは申し訳なさそうに顔を歪める。十夜さんが忙しそうにしていたのはわかっていた。準備の全てを任されていたようなのだ。
しかも私が手伝いたいと言い出したのが先週のこと。十夜さん一人が悪いなんて思わなくてもいい。
「いえ、お母様にお会いできるの、楽しみです」
十夜さんの優しさが嬉しく、私は首を横に振って笑ってみせた。
ただ、やはり緊張からか頬が引き攣る。上手く笑えている自信はなかったが、お客さんが来たのでお手伝いに集中することにした。
* * *
正午を過ぎたころ、客足がまばらになった。十夜さんはこのタイミングで昼食に行った。
ゆっくりしてきて欲しいと伝えたが、きっと十夜さんのことなので私を気にして、十分もしないうちに帰ってきそうだ。
しかし、それでは私が手伝いに来ている意味がない。初日だから仕方が無いけど、慣れてきたらきちんと一時間休憩を取ってもらおう。
店の奥で伝票を整えながら、密かに気合いを入れていると……。
「十夜、お客さんはどう?」
入口から店の奥へと呼び掛ける声が聞こえた。明るくて澄んだ女性の声。“十夜”という呼び方に、私の心臓は跳ね上がった。
――十夜さんのお母様だ。
反射的に察知し、乾いた喉で唾を飲み込む。気を引き締め、私は店の前へ出て行くことにした。
「も、申し訳ありません。十夜さんは今、休憩中でして……」
「あら、そうなの。タイミングが悪かったわね」
「あ、あの! 今、連絡してみますっ」
やっぱり十夜さんのお母様だ。
鋭角的な輪郭に筋の通った鼻梁、柔らかな眉とハッキリとした瞳が絶妙に配置され、綺麗な顔立ちをしている。ほぉっとため息を吐く仕草はどこか十夜さんを見ているようだ。
私は慌てながら鞄からスマートフォンを取り出し、十夜さんに電話をかけようとした。だけど、お母様がそれを止める。
「ああ、電話はいいわ。十夜には私からメールしているから」
「そうですか」
そう言うのなら……。それに十夜さんなら、メールに気付いたらすぐに駆けつけてくれるだろう。
私は取り出したスマートフォンをレジの側へ置き、お母様に向き直った。すると、十夜さんはお昼休憩中だとわかっているはずなのに、キョロキョロと店内を見渡していた。
十夜さんではない誰かを探しているのだろうか。私が尋ねようとしたら、先にお母様の方が口を開いた。
「十夜がいないなら、翠ちゃんはいらっしゃる?」
「えっ」
翠さんがいて当然かのように聞かれ、一瞬戸惑ってしまう……が。
「母さん、翠さんはいないとお話しているはずですが」
お母様の後ろから十夜さんが現れた。このタイミングで来てくれたのはすごく有難い。乱れた息から、すぐに駆けつけてくれたんだわかり、胸が熱くなった。
「あ、十夜。お昼休憩から帰って来たのね」
「ええ、こちらに着いたというメールをもらったので。しかし、到着する前にメールをくれませんか?」
十夜さんは眉間にしわを寄せながらスマートフォンを見せ、それを袂にしまった。
「車の運転をしていたらメールできないでしょう。あ、それで翠ちゃんがいないってどういうこと? 私、説明してもらったかしら」
お母様の口から出てくる“翠ちゃん”という言葉に胸がツキリと痛む。十夜さんのお母様は、翠さんのお母様がされている茶道教室に通っているのだから、翠さんとも親しくても当然だとわかっているのに。
私は胸元で手を握った。
「翠さんは御茶屋さんでバイトされているんですよ。もう、お店の手伝いもしていません」
「あら、そうだったのね。よく気が利いてお客さんにも評判よかったのにね。残念」
私への接客は無愛想だったけれど、他のお客さんには愛想が良かったみたい。十夜さんが絡まなければ、優しい人なのだろう。
私も、お母様にそんな風に言ってもらえる接客ができるだろうか。
別に自分と翠さんを比べてられているわけではないと思う……というより、そう思いたかった。だけど、とても居辛い。
私が俯いてしまっていると、十夜さんが隣へ来て、両肩にポンと手を乗せてきた。
「十夜さん……?」
その重さがひどく安心する。私がそっと十夜さんの顔を見上げると、彼はふわりと微笑んでくれた。そして、お母様に向かって紹介を始めてくれる。
「今回の特別出店を手伝ってくれるのは凛子さんです」
「は、初めまして」
私は焦りながらも挨拶をした。
「十夜が言っていたお手伝いしてくれる女の子は、この可愛らしい子だったのね。てっきり、施設側のお手伝いさんかと思っていたわ。ごめんなさいね。どうぞ、よろしく」
お母様は優しく笑ってくれた。悪意も何も感じない笑顔に安心する。
「じゃあ、私が手伝うことはなさそう?」
「いいえ、凛子さんはこういったことが初めてなので、どうか慣れるまではいてください。あと、平日は僕一人になるので、たまにはこちらへ来て下さい」
「なかなか大変ねぇ。習い事しばらく休もうかしら」
お母様は鞄から取り出した手帳を開き、ため息を吐いた。
翠さんだったら手慣れているだろうし、平日も十夜さんのお手伝いができたかもしれない。そう思うと、自分のふがいなさに落ち込む。
だけど、落ち込んでいても何もできない。少しでも十夜さんとお母様の負担を減らせるように頑張らなくては。
「あ、あの……私、精一杯頑張りますので!」
思わず意気込みをお母様に告げていた。
お母様は目を丸くして瞬かせた後、噴き出して笑った。
「ありがとう。その息で一カ月乗りきってもらえると助かるわ」
「はい!」
会社へ入社した時もこんなに大きな声を出したことはなかった。そう思うほど大きな声が自然と出ていた。
そんな私の様子に、お母様は可笑しそうに笑い、十夜さんも優しく目を細めてくれる。
「じゃあ、凛子さん。早速だけど昼食に行ってきてはどう? 店も空いているし、私もいるし、丁度いいんじゃないの。疲れたでしょう」
「あ……はい」
思わず拍子抜けしてしまう。気合いを入れたばかりだったし、もう少し話がしたかった。だけど、休憩へ行くのを渋るのも印象が良くない。
「ありがとうございます。ではお先に休憩いただきます」
私は言われるがまま、鞄を持ってその場を去った。
お母様が怖い人じゃなくてよかった。休憩室へ向かいながら、ホッと息を吐く。
「あ、スマホ……」
鞄の中を探ると、スマートフォンがなかった。
「……置いて来ちゃったんだ」
そういえば先ほど、お母様が現れた時に十夜さんに連絡を取ろうとし、そのままレジの側に置いてしまった。
お母様がいるので途中で呼ばれることもないだろうけど、万が一ということもある。私は取りに戻ることにした……が。
「なんで翠ちゃんに頼まなかったの?」
「――ッ!」
お店の入口まで足を進めた時、お母様の声が聞こえた。
そんな言葉を聞いて中に入る勇気もなく、私はいけないと思いつつもその場に立ち止まって耳をそばだてた。
「凛子さんも気遣いが出来てとてもいい子ですよ」
「そりゃ凛子さんも素直そうで可愛い子だと思うわよ。だけど、手伝いは翠ちゃんの方が貴方も助かったでしょう」
「翠さんには翠さんのやりたいことがあるんです」
「それはわかってるつもりだけど……あ、いらっしゃいませ」
お客さんが来たらしく、二人の会話はそこで途切れた。だけど私は、その場から動けずにいた。
自分が翠さんより役に立つなんて思っていない。だけど、十夜さんには「翠さんより、凛子さんがいてくれる方が助かる」と嘘でも言って欲しかった。
……なんて、性格が悪いのだろう。
お母様もきっと、無意識に翠さんと比べてしまっているだけで悪気が無い。
……だからこそ堪える。私は贅沢だ。
足は鉛をつけたように重くなっていた。それでもなんとか動かし、私はそのまま休憩室へ向かった。