恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


「あれ? 凛子……?」

 その声に、ドキンと心臓が跳ね上がる。
 まさか、でもそんな偶然が……?
 聞き覚えのある声にそっと顔を上げると、目の前には短い黒髪に半袖のワイシャツを着た男の人がいた。
 つぶらな瞳に小さな鼻、薄い唇をした好青年という言葉がとても似合う爽やかな人……それは、私の元彼だった。

「……健一君」

 久々に口にする元彼の名。呼ばれてにっこりと笑う彼がとても懐かしくて、胸の奥がきゅんと切なくなった。
 健一君とは大学生の時に三か月間だけ付き合っていた。
 元彼と呼べる人は健一君だけ。明るくて優しくて、困っている人を放っておけない人だった。
 彼のことは好きだった。十夜さん以上に好きになれたらと思い付き合い始めたけれど、そうはなれなかった。だから、別れた。
 一緒にいるとやっぱり自分は十夜さんを好きなのだと確信するばかりだった。
 別れを切り出した時、罵倒されるのを覚悟していたけど、健一君は全く怒らなかった。

「誰か、他に好きな人がいるのかなって気はしてたんだ。でも、いつか忘れるかなって……」

 苦笑する健一君は、今まで見た中で一番優しい顔をしていた。
 別れてからも、健一君は友達として何も変わらない態度で接してくれた。

「どうして、凛子がここに? 浴衣なんか着て……地元の会社で事務員として就職したんじゃなかったっけ?」

 尋ねながら私の前に腰を下ろし、食堂の日替わり定食が乗ったおぼんを置いた。どうやらここで休憩を取るようだ。

「うん、平日はそこで働いてるよ。土日だけ、この前から特別に出店している呉服屋さんを手伝ってるの。健一君は?」

 私が記憶する限りだと、地元のスーパーに就職した。どうして全国区のショッピングモールに従業員としているのだろうか。
 健一君は味噌汁を一口飲んでから口を開いた。

「俺の働いている会社が、このショッピングモールの小会社になったんだよ。で、俺は本社のシステム部に配属されていたんだけど、出向っていう形で先月からここに来てるんだ」
「そうだったんだ」
「やっぱ全国区の企業は違うな。システムが進んでて、毎日勉強だよ。今の会社に入ってからもしんどかったのに、また一から勉強なんてやんなるよ」

 大袈裟にため息を吐く健一君は、言葉や態度とは裏腹にやりがいを感じているという表情に見えた。

「勉強……か。一緒だね」
「凛子も勉強してるの?」
「うん、呉服屋さんの勉強してる」

 いつも仕事から帰って、十夜さんにもらった着物の部位や柄、歴史が書かれた本を読んでいた。
 ここにいる間は歴史なんて必要がなさそうだけど、いつか必要になるかもしれないと思って勉強をしている。
 正直、そういった意味で十夜さんも本をくれたのかと思っていた。だけど、まだ紹介をしてもらえていない……。
 今日はお母様がいないから仕方ないけど……明日は紹介されるのだろうか。
 また少し、気分が落ち込んでしまう。

「大変だな。平日は仕事してるのに、土日も手伝いって……そのうえ勉強? 疲れるだろ」
「疲れる……?」
「それでちょっと元気なかったんだな。あ、待ってろ」

 そう言って健一君は、まだご飯の途中だというのに席を立った。
 疲れてる? 元気がない? 私が……?
 そう言われれば、こんなに毎日フルで働いたことはなかった。そのうえ十夜さんと毎週顔を合わせていても、ゆっくり話す時間も触れ合う時間もなかった。
 お母様の言葉や、翠さんという存在や、紹介のこと……そんな小さなことの全てに引っ掛かってしまうのも、全部疲れているせいかもしれない。

「そっか、疲れてたんだ……」

 疲れが取れたら、もっとちゃんと十夜さんと向き合える。そう思うと少し楽になった。

「そうそう、疲れてるんだよ。だから、ほら……抹茶オレ」

 戻ってきた健一君が、私の目の前に緑色のパッケージに“抹茶オレ”と白文字で書かれた250mlのパックを差し出してくれた。

「凛子、好きだっただろ? ここの自販機で売ってるんだよ」
「……健一君」

 抹茶オレは健一君と一緒に試験勉強をしている時、疲れたら近くのコンビニへ行ってよく買っていたものだ。
 ほど良い甘さがちょうどよくて好きだった。

「ありがとう」

 健一君から受け取った抹茶オレはひんやりと冷たい。付き合っている時もこうしてよく気にかけてもらっていたのだった。優しくしてもらった思い出が蘇ってくる。

「まだ、覚えていてくれたんだね……」
「カフェオレが好きな彼女なら何人もいたけど、抹茶オレが好きな彼女は凛子だけだったから」
「へぇ……カフェオレが好きな彼女は何人も」
「うそ、ホントは1人」

 私が意地悪く突っ込むと、健一君は首裏を掻いて気まずそうに数字を訂正した。
 二人して、付き合いだした時のように照れ臭そうに笑い合う。穏やかで、くすぐったい時間。
 ……懐かしい。
 買ってもらった抹茶オレを飲むと、肩の力がスッと抜けていくのを感じた。

「いつまで呉服屋の手伝いするんだ?」
「花火大会の日まで」
「そっか。なんか懐かしいな、もっと話せたらいいんだけど」

 健一君は腕時計を見て時間を確認する。私より後から来たのに、もう戻らなくてはいけないみたい。

「俺もたまにしか店内うろつかないし……休憩の時間もまちまちだしなぁ。あ、番号は前から変わってない?」

 健一君はいつの間にか食べ終えた食器を重ね、テーブルの上に置いていた私のスマートフォンを指差した。

「変わってないよ」

 私が頷くと、健一君も胸ポケットからスマホを取り出して見せ、にっこりと笑った。

「俺も変わってない。よかったら、また連絡して。じゃあ」

 健一君はスッと手を上げると、御盆を持って席を立った。
 番号は変わっていない……健一君の番号もまだ、登録されたまま。
 十夜さんに過去について聞かれたことはないし、私も聞いたことがない。気にならないと言えば嘘になるけど、また翠さんみたいに自分を比べてしまうだけだと思い、聞けずにいた。
 十夜さんは私の過去を……気にしたことはないのだろうか。
(少し、妬いてほしい気もします)
 心の中には、また貪欲な自分が顔を出す。それは黒く、ひっそりと現れてじっとりと居座るもの……。

「すみません、遅くなりました」

 三十分経った頃、休憩から戻ると十夜さんは店に置いたパソコンを操作していた。注文書の整理をしていたのかもしれない。

「いえいえ、もう少しゆっくりしてきても良かったんですよ」
「そんなわけには……あ、十夜さん……お昼へどうぞ」
「僕はいいです。ここでこっそり食べましたから」
「え? そんな……っ」

 十夜さんはシーッと人差し指を立てた。
「ちゃんと、ここで食べたので。ほら、ここにはパソコンや事務用品しかないでしょう。それにやりたいことがあったんですよ」

 いたずらが見つかった子供のように……というにはあまりにも余裕たっぷりに言い訳をされてしまう。
確かに会計をするデスクの近くには浴衣はないし、店の奥になるのですぐにお客さんから見えることはない。
 でも、何か仕事があるのなら私に手伝わせてほしかった。

「やりたいこと……ですか。私にもできることですか?」

 十夜さんに食らいつく勢いで尋ねると、彼は困ったように眉をしかめた。

「あ……ごめんなさい。私……」
「いえいえ。僕が凛子さんに内緒でやりたいことなので」
「内緒……ですか」
「ええ、とても大事なことなので」
「……なんだか、半分バレてしまっていますよ」
「ああ……本当ですね」

 十夜さんは楽しそうに笑った。
 私に内緒だから……なんて、きっと十夜さんなりのフォローだろう。

「それより凛子さん。お弁当、大変美味しかったです。ありがとうございました」

 十夜さんがお弁当箱を返してくれる。空っぽになったお弁当箱は軽く、全部食べてくれたことがわかった。美味しいと言ってもらえると、すごく嬉しい。頑張って作ったかいがあった。

「お口に合ってよかったです。でも、明日はちゃんとお昼休憩を取ってくださいね」

 私を一人にしないために、十夜さんはここでお昼を食べた。
 何もできない自分が悔しい。私はお弁当箱を胸の前でギュッと握りしめた。

「あ、そうでした。そのことですけど……凛子さん、明日はどうぞお休みしてください」
「え?」

 十夜さんの突然の言葉に、私はビクリと肩を引き攣らせた。
 休みなんて取る予定はなかったのに。まさか、疲れているということが態度に出てしまっていたのか。十夜さんの方が働き詰めだというのに。

「僕は平日、商店街の店が休業日の時に、父に代わってもらって休みを取っているんです。でも凛子さんは平日仕事をされて、土日もここを手伝っている。お休みがないじゃないですか」
「でも……私はお手伝いですし」
「お手伝いでも仕事をしているには変わりありません。凛子さんの体調が心配です」

 十夜さんに心配だと言われれば、休みを取らないわけにはいかない。それに、自分でも疲れているとわかった。
 元気になれば、きっとモヤモヤもなくなって、ちゃんと十夜さんと向き合える。

「では……いただきます」

 私はお礼を言って、休みをもらうことにした。

< 51 / 58 >

この作品をシェア

pagetop