恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


「凛子さん、どうしてここへ?」

 益田呉服店へ着くと、十夜さんは丁度接客が終わった直後だった。私の姿を見て、驚いたように目を丸くした。

「今日はお休みをあげたはずですが」

 そういう十夜さんの口調は、私が想像していたよりずっと厳しいものだった。

「あの、十夜さんに会いに……」

 何故か責められている気分になり、私は俯きながら小さく答えた。
(もっと……喜んでくれると思っていました)
 私が俯いたままでいると、十夜さんは深く息を吐いた。

「僕に会いに……ですか。他の誰かではなくて?」
「え?」

(それは、どういう意味ですか……)
 全く予想していなかった返答に、私は弾けたように顔を上げた。眉根を寄せ、疑うように私を見てくる十夜さんと目が合う。

「と、十夜さ、」
「凛子!」
「――っ」

 私が十夜さんへ問いかけようとした瞬間、後ろから声を掛けられた。しかもその声は、今一番現れて欲しくなかった人……。

「……健一君」

 健一君は業務で店内を回っていたらしく、書類を片手にこちらへ歩み寄って来た。
 まだ十夜さんに、健一君のことを説明していなかった。何か誤解されては……。
 焦りながら十夜さんを見ると、彼は無関心そうに顔を背けて店内の奥へと入って行った。

「あっ……」

 引き止めようとしたけれど、声が出ず。私は離れて行く十夜さんに手を伸ばすこともできなかった。

「今日は昼からだったんだな」
「え……?」
「午前中にここに寄ったんだよ。そしたら今の綺麗な人に、凛子は休みだって言われて」
「ここに来たの?」

(もしかして十夜さん……)
 ドクンと心臓が嫌に脈打つ。十夜さんは既に健一君のことを知っていた。

『他の誰かではなくて?』

 先ほどの十夜さんの言葉が頭に過る。
(何か、誤解をしているのですか?)

「いや、凛子が疲れてるし。今日は遅くまで手伝うって言ってたから……抹茶オレ渡そうかと思って。でも結局、いなかったから昼休憩に飲んじゃったよ」
「……あ、ありがとう」

 健一君の言葉が申し訳ないほど耳を素通りしていく。お礼を述べるが、頭の中は十夜さんでいっぱいだった。
 十夜さんは、私と健一君のことをどう思ったのだろう。

「今は、店内歩きながらシステムの確認をしてて……あ、先輩が呼んでるから仕事に戻るわ。じゃあ、またな」
「う、うん」

 健一君は私に片手を上げると、小走りで先輩の元へ戻って行った。
 どうしよう。どうやって、十夜さんに話そう。
 ちゃんと話せば私の言うことを信じてくれると思いつつも、先ほどの態度がひっかかってしまい、すぐに十夜さんの元へ行くことができなかった。
 すると。

「あら、凛子さん。さっきの方は彼氏?」
「お……お母様!」

 立ち尽くした私の側にやってきたのは十夜さんではなく、お母様だった。どうやら店の奥にいたらしく、十夜さんと入れ違いに出て来たようだ。手には鞄を持っているので、今から帰るところらしい。

「ち、違います! 友達で……」
「そうなの? 別に隠さなくていいのに……それじゃあ、お疲れ様」

 否定する私の言葉には耳も貸さず、お母様はクスクスと楽しそうに笑いながら帰って行った。
 完全に誤解されてしまった。だけど、それよりも気になるのは……。

「十夜さんっ」

 私は店の奥にいた十夜さんに声をかけた。椅子に座って伝票をまとめていた十夜さんは、手を止めて私にチラリとだけ視線を向けてくる。その無関心を貼り付けたような表情に背筋が凍ってしまいそうになった。

「あの、」

 声が上手く出てくれず、喉元を抑えながら喋るがどう言っていいかわからない。
 すると、伝票から手を離した十夜さんが、ゆっくりと立ち上がって側に来てくれた。

「先ほどの方は……元彼、ですか」
「あっ……」

 いきなり十夜さんの方から言われてしまい、全身が強張る。
 どうしてわかったのだろうか。
 私があえかに頷くと、十夜さんは寂しそうに視線を落とした。

「僕は、凛子さんが抹茶オレを好きだなんて……知りませんでした」
「が、学生の時によく飲んでいただけです」
「元彼がここで働いているのも知らなかった」
「私も知らなくて、昨日食堂で会ってそれで……」
「いえ、疑っているわけではないのでいいんですよ。ただ、妬いているだけですから」
「……十夜さん」

 妬いている。そう言う十夜さんの表情が酷く冷たく見えた。
 妬いているというより、十夜さんは怒っている。

「昨日、言いそびれてしまって……その、ごめんなさい」
「凛子さんが謝ることじゃない。僕が大人気ないだけです」

 十夜さんは自嘲気味に笑うと、店の中へと戻って行った。頭を撫でることもなく、顎を掴むこともなく……ただ去って行く十夜さん。
 それに違和感を持ってしまうことがおかしいのかもしれないけど、心の底から寂しく思う。
(胸がモヤモヤします……)
 あまりにも“妬いている”と素直に言って、私に意地悪の一つもせず平然としている十夜さんに不安が過る。

「十夜さん、あの」

 私が十夜さんを追いかけて店の奥へと行くと、彼はこれ以上中へ入るなと言わんばかりの視線を向けてきた。

「凛子さん、今日はもう帰りなさい」
「と、十夜さ、」
「疲れていると思ってお休みをあげたのに……ここへ来ていては、全く意味がない」
「……はい」

 もっともだった。身体を休めると同時に、十夜さんとちゃんと向き合いたいと思っていたのに、その十夜さんを不機嫌にしていては意味がない。
 私は小さく返事をすると、後ろ髪を引かれる思いで彼の元を後にした。


 家に帰ってから、十夜さんにメールを送った。

『今日はごめんなさい』

 健一君とのことを黙っていてごめんなさい。せっかくもらったお休みなのに下手な使い方をしてごめんなさい。苛立たせてしまってごめんなさい。
 いろんな謝罪を込めて一言だけメールを送った。
 返事はショッピングモールが閉店した時間の五分後には返って来た。
 仕事中は私用の連絡はなるべく控える十夜さん。仕事が終わってすぐに私に返事をしてくれたかと思うと嬉しくて、でもメールの内容を考えるとドキドキしていた。

『僕の方こそ、すみません。凛子さんの元彼という存在にカッとなってしまったようです。来週はよろしくお願いしますね』

 十夜さんの精一杯のフォローが伝わってくる。
 お互いに謝り合って、何事もなかったかのように過ごす。仲直り、ということだろう。
(でも……うまくかみ合ってない気がしているのは、私だけでしょうか)
 いつからだろうか。一緒にいる時間は増えたはずなのに、少しずつ小さな不安と不満が募り、私達は離れていっている気がする。

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