恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
* * *
次の週。十夜さんに面と向かって謝ろうとしたが、出勤するとあまりにもいつも通りに挨拶をされたので、そのまま機会を失ってしまった。
それから健一君の話題に触れることもなく、私達は仕事だけをこなし、いつの間にか十夜さんは私をからかうこともしなくなった。
仕事で疲れているのだろう。そう思うけれど、やっぱりどこかに距離を感じる。
そんなことを考えていた日曜日の午後。お母様がやって来て、十夜さんは休憩に向かった。すると。
「こんにちは」
聞き覚えのある、鈴の音のような声がした。
嫌な予感がしつつも店の入り口を見ると……。
「翠さん……どうして、」
そこにはパツンと切り揃えた黒髪ボブの翠さんが立っていた。薄水色のシフォンブラウスに短いキュロットを履いている。
なんでこんな時に。
私が呆然として見つめていると、翠さんはにっこりと笑いながらこちらへ近づいて来た。
「実は十夜さんからご連絡をいただいて」
「……十夜さんから?」
私の不安を煽るように、翠さんは手に持ったスマートフォンを見せてきた。
どんな連絡があったのだろう。聞きたいけれど、聞くのが怖い。
きっとそんな私の内心は翠さんに見透かされているだろう。しかし彼女は十夜さんからの連絡の内容には触れず、私のことをじっと見つめてきた。
「どうですか、凛子さん。呉服屋さんのお仕事には慣れましたか?」
「……い、いえ。まだ勉強中なので」
「大変でしょう」
どこか挑発的な口調に、私は後ずさりしたい気持ちを堪えて答えた。
「あら、翠ちゃんじゃないの!」
私達の話し声で翠さんがやって来たことに気付いたのか、店の奥からお母様が顔を出した。
お母様の姿を見つけると、翠さんは礼儀正しく一礼した。
「おばさま、お久しぶりです。これ、水ようかんなんですけど、よろしかったら皆さんで召し上がってください」
翠さんは手に持っていた和菓子屋さんの袋をお母様に手渡した。
「ありがとう、気を使わなくてよかったのに。ここの水ようかん美味しいのよねぇ」
お母様は嬉しそうに目を輝かせ、とてもフレンドリーな様子でお礼を述べる。そして何か思いついたように「あっ」と口を開いた。
「そうそう、丁度良かった。翠ちゃん、来週って時間あるかしら?」
「来週ですか?」
「土曜日だけでいいんだけど、ここを手伝ってくれない? 私がちょっと用事で出て来られなくて」
「お手伝い……ですか」
翠さんは言いながら、私の方を尻目で見てくる。その視線が痛い。
土曜日なら私もいる。だけど、お母様は代わりとして翠さんにお願いしている。自分がお母様や翠さんの代わりなんて務まるはずはないとわかっているけれど、やっぱり悔しかった。
「凛子さんも来てくれるし、花火大会の前日に慌てて浴衣買いに来る人もそう多くは無いんだけど……別のお祭りでもあるのかしらね、浴衣の引き取りが多かったりして……意外とバタバタしそうなのよ」
そんなバタバタに私では対応できない、まだまだお手伝いとしても役不足だということだ。
翠さんは少し考えた後、コクリと頷いた。
「では、土曜日だけお手伝いさせていただきますね」
その言葉を聞いたお母様の表情は晴れやかで、随分と安心しているように見えた。
「じゃあ、お願いね。あ、お父さんから電話だわ」
お母様は浴衣の帯に挟んでいた携帯電話を取り出すと、店の奥へと消えて行った。
「あまり、頼られてないんですね」
翠さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。たった一瞬の会話だったと言うのに、既にここでの私の立場を気付かれてしまった。
自分が情けなくてたまらない。でも、本当のこと。
「そうです。私なんて役立たず……」
「ちょ……ちょっと、そんな風に落ち込まないで、何か言い返してきないさいよ!」
「……え?」
なぜか意地悪を言った翠さんが焦り出す。それから調子を整えるようにため息を吐くと、頬にかかる髪を耳にかけた。
「今月から店頭に立ったのでしょう? 頼り無くて当たり前です」
「……翠さん?」
「前から思っていましたが、もう少し自分に自信を持たれたらどうですか」
「み、翠さん……何か言っていることがチグハグです」
さっきは私をいじめてきたのに。今度はフォローをしてくれる。
そもそも翠さんは、私のことが妬ましいのではなかったのだろうか。
「いいんです、本来の私は優しいですから」
「そう、ですか」
「だけど……こんなもんじゃないですよ、呉服屋の嫁になるっていうのは。年配のお客さんなんて、難しい人が多いんですから」
「……はい」
ここはショッピングモールという場所柄、若い人が多かった。でも、商店街にある益田呉服店には年配の人が多い。
私が遊びに行った時に来店するお客さんは大概優しい人だけど、中には難しい人もいるだろう。それに、百貨店に季節折々で出店することもあると聞いた。
「じゃあ、私は帰ります。お母様によろしく言っておいてください」
「あの、十夜さんには会わなくていいんですか?」
翠さんはきっと十夜さんに会いにここへ来たと思う。もうすぐ十夜さんも戻って来るだろう。
「……ホント、凛子さんって嫌な人。随分余裕なのですね」
「え?」
「私が十夜さんを奪うかもしれないとか、考えないてないんでしょう」
「そ、それは……」
考えてないわけじゃない。正直、ここで手伝い始めてから嫌と言うほど翠さんの存在が気になっていた。十夜さんの側にふさわしい人は私ではなく翠さんではないかと考えてしまうほどに。
「そうなったら……仕方ないと思います」
「えっ?」
「自分の力が足りなくて、そうなってしまうのなら……」
それで十夜さんが翠さんを選ぶのであれば、私は受け止めるしかないのだろう。きっとすごく辛くて泣いてばかりになりそうだけど、十夜さんが幸せになれるのであれば……。
「……どうやらいつもと違って、幸せな様子ではないようですね。何か言いたいことを溜め込んでいるみたい」
言いたいことを溜め込んでいる?
その言葉にドキリとして、私は口を噤んだ。翠さんは呆れたようにため息を吐いた。
「まぁ、凛子さんの調子なんて私には関係ありませんけど。とりあえず、十夜さんにはまた私から連絡します。それでは」
私も健一君と連絡を取っているから何も言えないけれど、やっぱり十夜さんと翠さんが連絡を取っていると思うと悲しくなる。
私が小さくなる翠さんの後姿を見送っていると、入れ違いに十夜さんが帰って来た。
「おや……もしかして遠くに見えるのは翠さんですか?」
「はい。翠さんが来ていました。来週……手伝いに来てくれるそうですよ」
言いながら胸がチクリと痛む。お手伝いも十夜さんが頼んだのではないかと、変に勘ぐってしまう。
「そうですか。それなら来週でもいいか……」
「え?」
翠さんと十夜さんはやっぱり何か繋がっている。
十夜さんは、聞き返す私を見て声を漏らしていたことに気づき、ハッと口を押さえた。
「いえ、なんでもありませんよ」
「……そうですか」
十夜さんに心配をかけてはいけないとわかっていても、さすがに胸が痛くてあからさまに落ち込んでしまう。
俯く私を十夜さんは覗き込んでこようとしている気配がした。
「……凛子さん、あの」
「あ、十夜! ちょっと来て!」
「はいはい」
十夜さんが何か言いかけた時、お母様の声がして言葉が遮られてしまった。
(何を言おうとしていたのですか……)
もう私は必要ないと言われてしまうのだろうか。そう考えると、言葉の先を聞くのが怖くて、お母様が帰ってからも話しかけることができなかった。