恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


* * *


「では、凛子さん。今日はもう帰ってもいいですよ」
「え……? でもまだ、午前中しか働いていませんよ」

 土曜日。翠さんがお手伝いに現れたと同時に、十夜さんに帰るように言われてしまった。
 私がまだ働けると言うと、十夜さんは顔をしかめた。その様子を、すぐ側に立った翠さんはただじっと見ていた。

「凛子さん、明日が最終日です。今日は翠さんも来てくれましたし、ゆっくり休んでください」
「と、十夜さん……でも、」

 それでもまだ私が食いついていると、十夜さんは唇にそっと人差し指を当てた。

「僕の気持ちをわかってください」
「……気持ち、ですか」
「凛子さんの身体が心配です」
「十夜さん……」

 そう言われてしまえば引き下がるしかない。
 私は店の奥へ戻って荷物をまとめることにした。

「不服そうですね」
「……翠さん」

 私が荷物をまとめていると、背後から翠さんがやってきた。十夜さんはお客さんが来たらしく、接客をしている。

「十夜さんに大切にされておいて、何が不満なんですか」
「……」
「身体の心配をしてもらえるなんて、普通は有難いと思うものでしょう。それを……全く嬉しくなさそうな顔をして」

 翠さんの言い分は胸に痛いほどよくわかる。確かに、大切にしてもらえているのだから、もっと有難く返事をするものだろう。でも私は……。

「言いたいことがあるなら言えばいいじゃないですか。それが一番スッキリします」
「でも、十夜さんを困らせるかも」
「困らせればいい。私だって、好きだと言って十夜さんを困らせた」

 翠さんは十夜さんに気持ちを伝えた。十夜さんはそれを断り、二人は少し距離をとった。それも今回、こうしてまた近づいている。

「十夜さんも十夜さんで、言いたいことを言わないから」
「え?」

 翠さんは呆れたように肩を竦める。私が聞き返すと、はぐらかすように口の端をあげて笑った。

「いいえ、十夜さんも凛子さんも、臆病な人だと思いまして」
「お、臆病……ですか」
「まぁ、貴女達の関係が壊れてしまえば、私が彼をもらいに行きますからご安心を」
「そんな……っ」

 どうしよう。私は全てにおいて翠さんに劣っているのではないか。
 心がざわつく。これ以上この場にいたくない。私は慌ただしく荷物をまとめると、駆け足で店から出て行った。
 何もキツイ言葉を言われたわけではないのに、心のどこかが弱っている。視界が滲み、自分が今にも泣きそうになっていることに気付いた。
 早くここから出なければ。……一人になりたい。
 そう思いながら、ショッピングモールから出ようとしていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。

「凛子?」
「……健一君」

 声の方へ振り返ると健一君がいた。今日もシステムの確認なのか、手には書類を持っている。

「もう帰るのか……って、どうしたんだよ」

 私が泣き出しそうになっていることに気付いたらしく、健一君は焦ったように顔を覗き込んできた。

「な、なんでもないよ。今日は……午後からお休みなの」
「……そっか」

 俯いて顔を隠すが、まだ見られている気がする。
 このまま上手く帰れないかと思っていると、そっと頭を撫でられた。

「……け、健一君」

 思わず顔を上げると、私を気遣うような瞳で見つめてくる健一君と目が合った。

「明日は……暇?」
「え?」
「花火大会、行かないか?」

 花火大会……それは十夜さんと行きたかった場所。でも、忙しいから無理だと言われてしまったのだった。
 私が黙っていると、健一君は頭から手を離して首裏を掻いた。

「返事は明日でいいから。何があったか聞かないけど、気分転換になればいいと思って」
「健一君……」

 健一君は優しく微笑むと、仕事に戻って行った。


 電車で帰りながら、先ほどのことを思い返す。
 健一君と付き合っていた時は、確かに寂しい思いをしたことはなかった。初めてのことばかりで、お互いに距離を探りながらデートの回数を重ねていった。
 頭に蘇るのは瑞々しい記憶。

「花火大会……か」

 電車が最寄の駅に近づいてくると、車窓から花火大会の会場である河川敷が見えた。明日開催ということで、既に準備がされている。
 別に絶対花火大会に行きたいわけじゃない。ただ十夜さんと行きたかっただけ。
 でももし、私が十夜さんの側にいるべき人間じゃないとしたら……。

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