恋衣 ~呉服屋さんに恋して~


 窓の外では、綻び始めた桜の蕾が、開花の時を静かに待ちわびている。
 そんな外の静けさとは裏腹に、私の心は落ち着きを失っていた。

「大人っぽく見えるかな……」

 部屋で着慣れないワンピースに袖を通し、不安に思いながらファスナーに手をかける。
 せめて“五年前”の自分よりは大人になっていたい。
 願いを込めるようにファスナーをあげていると、一階から私を呼ぶ声が聞こえた。

「凛子(りんこ)、お金はテーブルの上に置いておくからね!」

 私と同様、母も朝から慌ただしく動き回っていた。

「うーん」

 頭の中が他のことでいっぱいだった私は、身なりを整えながら唸るように返事をした。だけど母の耳には届かなかったようで、階段を上る足音が聞こえてきた。

「凛子、聞いてるの?」
「きゃっ」

 私の部屋へ近づいてくる……と気付いた時には遅く、ドアは短く音を立てて開かれてしまった。
 ノックも断りも一言もなかったので、ファスナーを上げていた手がビクリと止まってしまった。

「お、お母さん……いきなり開けないでよ」
「だって、凜子が返事しないからでしょ」
「へ……返事したよ」

 声が小さかったかもしれないけど……。
 わかってはいたけれど、今はそれどころではなかった。
 自分にとって、大事な時を迎えようとしているのだ。

「そう? お母さん、もう行くからね」

 母は私が言い返すのを気にも留めず、時計に視線を落として話を続けた。
 私とは別の意味で、母も取り乱していた。
 昨日、単身赴任で県外にいる父が高熱を出してしまったのだ。
 朝晩の冷え込みに、なにかと無頓着な父は体調管理がうまくできなかったよう。熱は未だに下がらないらしい。
 だからと言って、わざわざ看病に向かうのは少々大袈裟な気もするけれど、近所でもおしどり夫婦として有名な父と母。二人にとっては当たり前のことなのだろう。
 父のことでアタフタする母は、恋する乙女のようで可愛らしい。

「気を付けて、いってらっしゃい」

 私は少し口元を綻ばせながら、見送りの言葉をかけた。
 恐らく母は、父のことで頭がいっぱいなので、私の様子には気付いていない。
 このまま去ってくれれば……。
 念のため両手は胸元に当てて、さりげなく衣服を隠した……が。

「いってきま……って、凜子! なんでそんなにお洒落してるの?」
「あっ……」

 気付かれてしまった。いや、やっと気付いたと言うべきか。
 ギクリと肩を引き攣らせながらも、ちょっとだけ呆れてしまった。

「凛子……いつの間に、そんな服買ったの?」

 母は私の見慣れない姿に、爪先から頭のてっぺんまで視線を走らせる。

「き……去年のバーゲンで買ったの」

 怪訝な顔で聞かれ、なんだかバツが悪くて俯きながら答えた。
 本当は……違うけど。
 今着ているワンピースは今日のために、慌てて昨日買いに行ったものだ。
 まだ寒さがほんのりと残る三月。同時に春の芽吹きも感じる三月。
 それを意識してベージュの布地に、小花が咲くワンピースを買った。
 その上にワンピースと一緒に買った、ベリー色のカーディガンを羽織ればいつもと違う自分が出来上がる。

「駅前の商店街に行くだけでしょう? そんなにお洒落しても、あそこにいるのはお年寄りばかりよ」
「い、いいじゃない。別に……」
「あぁ、でもそうね、呉服屋には若旦那がいるんだっけ?」

 “若旦那”
 その言葉に、瞬時に五年前の“彼”の顔が浮かぶ。
 採寸の時に近づいた体温さえも蘇ってきて、頬が熱くなるのを感じた。

「あそこの御主人、凛子の晴れ着を買いに行った時も結構なお年だったけど、今もいるのかしら。それとも若旦那が継いだのかしらねぇ」
「さ、さぁ……どうなんだろう」
「まぁ、お洒落はいいけど、裕子(ゆうこ)にちゃんとついててあげてね」
「わかってるよ。それよりお母さん。そろそろ家、出た方がいいんじゃないの?」

 母は再度腕時計に視線を落とし、焦ったように口を開いた。

「あ! そうね。早くお父さんのところへいってあげなくちゃ。じゃあ、二人とも気を付けて」

 そうして荷物を抱え、足早に家から出て行った。

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