『無明の果て』

「私の妻も、麗子という名前でした。」



そう言いながら、差し出された椅子の前で、旅立つ前夜、入る事は出来なかった店の前でかすかに聞こえた歌声を思い出していた。



そう、ただの友人。


北原園の、切なすぎる歌声を。








「お疲れではないですか?」


岩沢神父は、祭壇の隣にある古い扉の重いドアノブを押し、背中越しに声をかけながら、


「この部屋で麗子さんとも、色々な話をしたんですよ。


鈴木さんにお会い出来る日を、楽しみに待っておりました。


麗子さんをアメリカに送り出す懐の大きな若者と、話をしてみたいと思っておりました。」



そう言って振り返り、もう一度



「よくいらっしゃいました。


岩沢輝と申します。


麗子さん、いえ奥様から聞いているかと思いますが、新米の神父です。


この歳になって、久しぶりに新入社員の頃を思い出すような、懐かしい気持ちを味わっています。



おかげで少し若返ったかもしれません。」



と、微笑みながら丁寧に頭を下げた。



あまりにも違う人生の長さ、深さ、そして重さ。



その人の前で緊張している心を隠そうとしても、隠しきれない心臓の鼓動は、きっと岩沢の耳には届いているだろう。
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