『無明の果て』
その前に、麗子さんの墓まいりに行って来るから、私はここで失礼するよ。」



胸が締め付けられて痛いのは、式の感動のせいじゃなく、今専務が言った



”麗子さん“


と言う呼び名だった。


もしかしたら、岩沢の妻が亡くなる間際、岩沢じゃない男性の名を呼んだというその人は、小池敬志という男ではなかったのか。




岩沢が


”知らない名前“


と言いたかった、意地を通す訳が、そこにはきっとあったのだろうと。




アメリカへ渡り、一度も日本に帰らず、ひとりになった今でさえ、口にしたくない辛い恋の続きが、岩沢の嘘を作ったとしても、誰もそれを責める事は出来ないだろう。




黙って聞いていた一行が、意を決したように口を開いた。



「専務


失礼かもしれませんが、岩沢さんの奥様をご存知だったんですか。」



ふっと寂しい瞳に変わったような気がして、私は その瞳から目を反らした。




「あぁ、知っていた。
美しい人だった。

とても仲の良い夫婦だったよ。

私の憧れの人だった。

いや、憧れの夫婦だった。」




「すみません。

余計な事を言いました。」



「いや、そんな事はないんだ。


彼だって知っている昔の話だ。


おい、鈴木
会社では言わないでくれよ。


ここだけの話だ。」




おどけたふりをして、そのまま背中を向けて立ち去る姿は、どこか 涼の面影に似て、一行が 深く静かに頭を下げ見送る姿は、岩沢の想いを映す。




”生きていればいいのさ“


遠いアメリカへ向けて、小池敬志という男が自分自身に言い聞かせていた言葉なのかもしれないと思った。



生きていれば いつか会える時が来るかもしれないと 願った言葉も、もう叶う事はない。




専務の姿が見えなくなり、それを待っていたかのように岩沢が後ろから 声をかけてきた。



「素晴らしい花嫁姿ですね。


でもまさか、赤ちゃんが一緒とは驚きました。」



「ちょっとみんなの所に行ってるから。」


と、一行は気をきかせてそこから離れた。
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