『無明の果て』
本社での仕事を終えて、ひとり足早に向かうのは、店じまいすると聞いた


路地裏の 「M」




久しぶりの見慣れた景色の中で、仕事終わりに まだ間に合うかもしれないと、出来れば 彼女には会わずにそっと


「楽園」


を聞いてみたいと、説明のし難い懐かしい心とそれとは別の危うい心が、ずっと静かに胸の奥で闘い続けている。



涼からの電話で



「園がこの間のオーディションで最終まで残ってるから、一行の名前出す事になるからってさ。


言っておいてくれって、頼まれた。」



とっくに自分の元から離れていたはずの、学生の頃の華やかな日々を、涼の電話で引きずり戻されたようだった。



裏切るとか、昔の恋を想うとかそういうものとは違う、遠くにいる妻への愛しさとは別の、触れてはいけない繊細な何かが、この心臓を素手で叩くような音がするんだ。


知らずに関わってしまっていた

『楽園』


と云う楽曲に込められた彼女の魂が、自分の作ったメロディと園の声で生まれ変わり、いつか街中で聞かれるようになるそんな日を、いつの間にか夢見ている自分にハッとする時があるんだ。



ちゃんとさよならをしたはずの、僕達には来る事はなかった楽園が、別の形で別の命を育んでいたなんて。



「園はお店辞めたらどうするって?」



「別の店探すって言ってたけど、昼間の仕事と両方はキツイって言ってた。


おまえに、一行に電話しないのかって聞いたんだよ、園に。


そしたら、それは俺が麗子さんに会うのと一緒だって言われたよ。」



そう言って少し笑った涼は、園の言葉を借りて自分の意思を伝えているのかもしれないと思った。



「うん。


涼、どうだ。

プロ試験イケそうか?」



「どうかな。


調子は悪くないんだけど、プレッシャーに弱くてさ。
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