唯一無二のひと
秋菜は目を丸くした。
「へー。それはまたなんで急に」
由紀恵が今の部品製造会社の事務の仕事に就いたのは、八年前、秋菜が20歳で結婚した時期だった。
器用貧乏なところがある由紀恵は、秋菜の小さいころから仕事が長続きしなくて、時々仕事を変えていた。
こんなに初めて長く続いた職場は、初めてだったのに。
「あのね。去年の秋、
大阪支店から異動していた部長さんがいるんだけどね…」
由紀恵は白いティーカップも包み込むように持ちうつむく。
「分かった。セクハラされたんでしょ?」
話があまり生々しくならないうちに秋菜は先手を打つ。
由紀恵はこくりと頷き、綺麗な形の眉を寄せた。
「…そうなの。今年の新年会が終わった後、誘ってきたの。
竹内さん、毎晩独り寝で淋しいやろ、僕が相手しようか、ですって。
ご心配なく、大丈夫ですからって断ったら、なぜか凄く怒ってしまって」
由紀恵の色白の頬が少し赤くなり、華奢な金のピアスが揺れた。
「それから睨まれてしまって。
昨日なんか、電話の応対が悪いってみんなの前で怒鳴られちゃって、泣きそうになったわ」
「あらら……」
豪太と結婚してから、由紀恵との会話は女友達としているみたいになった。
「ママ、五月人形買ってくれるって。
今度、一緒に見に行きましょうって。
きっと島田が買ってくれるって言ったんだよ」
秋菜は白い湯を両手でぱちゃぱちゃさせながら、洗い場にいる豪太に言った。
今夜はミルク風呂だ。
豪太は風呂椅子に腰掛け、頭を下げてシャンプーの泡を洗い流しているから、秋菜の話に答えられない。
髪から顔に垂れる湯の雫を手でぬぐいながら、豪太は勢いよく立ち上がった。
「由紀恵さん、仕事辞めたんだ…」
長い脚をあげ、浴槽を跨ぐ。
「正社員なのに、もったいないね…」
(五月人形より、食いつくところそこなの…?)
豪太は、昔から秋菜の母を名前で呼んだ。