唯一無二のひと
昨夜は気持ちが高ぶり、全然気付かなかったけれど、落ち着いて家の中を見回すと、なんとなく男の臭いがする気がした。
鴨居に掛けられた、ごつい木製のハンガー。
ダイニングチェアのクッションは一つだけ、黒い。
仕事をしていない由紀恵は時間に余裕があるらしく、部屋の中はさっぱりと片付けられ、観葉植物があちこちに置かれていた。
秋菜はふと気付く。
カップボードの上に置いたハイハイする柊の写真の横に、見た事のないシルバーの写真立てが飾られているのを。
それは、花が咲き誇る美しい温室をバックにした由紀恵と島田の記念写真だった。
久しぶりに見る島田。
丸顔に目尻の皺が増え、髪も髭も白髪が多い。
由紀恵が若々しい分だけ年齢差が際立つ。
そういえば、玄関には持ち手の長い靴べらがあった。
島田はここにひんぱんに出入りしているのだろうな…
秋菜は思った。
朝食を採り終えた秋菜は、ちかくのパーキングに停めた車の中に置いたままの柊のオムツを取りにいくことにした。
「じゃあ、ちょっといってくるね。ママ、柊、お願いね。
柊、いい子にしててね」
ジーンズの尻ポケットに車のキーを差し込み込みながら言う。
「いってらっしゃい」
由紀恵が応える。
柊はテレビに夢中で、秋菜の方を振り向きもしない。
(いつもだったら、大泣きして追いかけてくるくせに…)
秋菜は苦笑した。
玄関を開けて団地の共同階段を降りる。
1人で外出するのは、本当に久しぶりだった。
手ぶらで外に出た途端、開放感が秋菜の全身を包み込んだ。
何も持たない、ということが、こんなにも自由で気楽なことなんだと、改めて気づく。
駐車場まで歩いて10分くらいだ。
陽射しが徐々に強くなり始めた。
遠くの山からかすかに聞こえてくる蝉の声が今年の梅雨は空梅雨だったことを告げる。
この街は秋菜が中2の頃から、豪太と結婚するまでの六年間、過ごした場所だ。
今は雑草が生い茂る公園のそばを通りかかる。
「あっ……」
秋菜は懐かしさに、立ち止まった。
そこは豪太と初めてキスをした思い出の公園だ。
高校生になったばかりの春。
付き合って間もなかった。