ビターチョコレートに口づけを
いっくんは、花嫁――雪の、彼氏だった。
彼女が婚約した、と私に宣言しに来た、2日前まで。
「なに?ゆう。
お腹すいちゃった?」
優しく微笑んで先程兄が撫でたよりも少し乱暴に、私の髪をかき回した。
「ちがうよ…って、ちょ、せっかくセットしたのに髪が乱れるでしょ!」
そう言いつつも、その乱暴さのおかげで涙は引っ込んでくれたので、そっと心の中で感謝した。
なんか照れ臭いから、怒ったふりはするけど。
「ごめんね?
でもさ、そっちのが可愛いよ。」
「え、ほんと?
ねぇ、兄ちゃん、まじで。」
「壱、適当なこと吹き込むな。何時もより更にぶっさいくだっつの、アホ。」
「いっくんのバカ!!禿げろ!!!」
「え、禿げ…!?
ちょっと社会人になってからその台詞は色々とくるものが……
ねぇ、慎司。」
「揃いも揃ってさっきから俺に振るなっつの。
鬱陶しい。」
本当に鬱陶しそうな顔をした兄は、しっしっと、虫を追い払うように手を振った。
そして不機嫌そうに頭を掻いた。
なんだこの扱い。酷すぎる。ていうか、なんでお前が不機嫌そうなんだよ。
兄の鬼畜さに呆然としていると、誰かに髪を触られた気がして、あわてて振り返ろうとすると、ん、じっとして、といういっくんの声が聞こえた。
大人しく、元の体制に戻る。
「ちょっと待ってね、直してあげる。」
「元々いっくんがやったんじゃん。」
「ん、ごめんごめん。
反省してる。」
「しょーがないなぁ、もう…」
ふふっと思わず溢れてしまった笑い声を押さえながら、自分の心が随分と軽くなっていることに気づく。
ああ、そうか。
いっくんが全く、気にした素振りを見せないからだ。
「ねぇ、いっくん。」
「ん?どうかした?」
「ありがとね。」
「何が?髪?」
「違うってば!
……元気づけてくれたんでしょ?
私と兄ちゃんを。」
「……なんのこと?」
くすくすと笑いながらそう言ういっくんの言葉の真偽を見極めることは出来ないけれど。
それでもほら、兄ちゃんの不機嫌が何よりの証拠だ。
兄ちゃんは人に、特にいっくんに優しくされるのが得意ではないらしいから。