初恋の君の名は
歩く度に、パシン…パシンと音が鳴り響く。

(しまった。陰陽師の結界か?)

だが、女は歩を止めない。
白き龍の言葉は、この世を治める言葉。
それを持って熊野へと行かねば…。
女は峠で宿屋を見つけると、そこで一夜を過ごした。
朝の日も明けぬうちから、女は宿を後にするとひたすら熊野への道を歩き続ける。
履き慣れない足袋と草履。
草履の鼻緒が固く歩く度に擦れて泣きそうになる。
陰陽師達の小癪な結界に、足を取られながらも歩いていたが、女は草むらに入ると直ぐさま白去年でと緋色の袴を脱ぎ出した。
白き光を放つと女の体は一変して月の光を集め紡いだような白銀の狐の姿となる。
それを遠目で見ていた陰陽師達は、ゴクリと喉をならした。

「やや!!あれは、白面銀毛の狐ではないか!捕まえろ!!」

狐は耳をピクリと動かすと、男達が鼻息も荒くこちらへ向かって来るのを知ると、妖力でそれを撥ね除けた。
辺り一面に銀色の空間が広がる。
男達は、お互いの顔を見ながらも互いの無事を確認し合った。
遥か前方の小高い岩山に座ってこちらを見つめる妖し。
月が雲の切れ目から姿を現すと、月光の下に晒された白銀の毛皮をもった狐が佇んでいた。
その姿は月の神と言われる月読命(つくよみのみこと)かと思うほどに美しい毛並みは、月の光に照らされる水面のようにキラキラと輝いている。

「な、なんと神々しい…」

「あれさえあれば…帝に献上すれば…」

「おお〜!!ひい…ふう…みい…よ…いつ………おお!!これは凄いぞ!!でかしたぞ!! あの狐から尻尾を千切れば我々の力となるであろう!!」

男達の中でも一際力があるらしい烏帽子を被った男がそう言うと、かかれ!!そう叫んだ。

「九尾ではないが、かかれ!!」

良くに眼がくらんだ男達は、九尾の狐を捕まえれば我こそが陰陽師の頂点に立てると目論んだ。

「愚かな人間ども…妾を捕まえようなどと気が触れたような戯言を抜かしおって…」

狐は自分の毛を数本口に銜えると息を吹きかけ飛ばした。
すると、狐の銀の毛は数十匹の狐へと変化し、周りに散らばった。陰陽師達がどれだけ呪文を唱えようが、彼らの神通力は狐の妖力には到底敵わなかった。
その間に狐は走ってその場を立ち去った。




狐は走りながらも一心に熊野への一本道へと向かう。
人間の姿で歩いていた時に、怪我をした爪先から血がにじんで来る。
熊野に辿り着いた狐は、無限にも思える程に続く石段を見てた。
後からは弓を持った男達がやって来る。
一気に5、6段の石段を飛び上がれば、男達もそれに続けとばかりに勢いを付けて上って行く。
ようやく地獄のような石段を上り切った狐は、信太大明神の社の前に現れた。
全ての尻尾を出すとゆらゆらとそれらを揺らした。

《龍神からの使いだ。ここに現れる者に我の力を与えよ。それが京を救う人間となるであろう》

ケーンと一声嘶くと、社の周りの銀杏や松の木、梅の木々が風もないのに一斉に揺れ始める。

《九尾の…久しいの…何百年ぶりかのぉ…。龍神からの報せ、相分かった》

がさっと音がすると、自分のすぐ後に男がいた事に気が付いた。
男は狐を見るとニッコリ微笑んだ。
捕まえるのかと牙を出すが、男は大きな手で狐の頭を優しく撫でると社の軒下に狐を隠した。
その後すぐに、狩り装束に身を包んだ陰陽師達がやって来て男に「狐が逃げて来なかったか?」と聞くと男はあちらの方へと逃げて行ったと野原を指差した。
男達が行ってしまった後、男は小さな声で狐を呼んだ。

「もう大丈夫だ。出てお出で」

ゆっくりと社の軒下から出て来た狐は、足を引き摺っていた。
よく見ると、後の両足からは血がにじんでいた。
可哀想に思った男は、狐の足に薬草をつけてやると「捕まるんじゃないよ」そう声を掛けて立ち去って行った。

《信太大明神…あの者は?》

《ああ…あれか…あれは安倍益材(あべのますき)と言う者だ。とても信仰心に溢れていて、まだ奥方がいないのだ…そうだ。狐よお主が安倍益材の妻になってやれば良いではないか》

《ですが…》

《命を助けてもらったのであろう?》

《は…い》

《手当もしてもらったのであろう?》

《は…い》

《気位の高いそなたが無闇矢鱈に人間に触られるのは好まんのに、彼奴だけには頭を触らせよったではないか》

《………》

《龍神の神託は、おそらくそう言う物なのじゃよ》

九尾は後ろ足を舐めながらも、時折苦そうな表情をした。
変な人間(ヤツ)じゃ…。
我を捕まえようともせず、みすみす逃がすとは…。
気が付けば、九尾は安倍益材(あべのますき)の周りで彼の事を見張っていた。
安倍益材の住む屋敷は、お世辞にも大きく立派な物とは言えない。
どうしてだ…?
私を捕まえて帝の前に連れて行けば、褒美でも何でも貰えるだろうに…。
変なヤツ…。
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