ドメスティック・エマージェンシー
「僕は警察じゃないんだ、君を連れ戻す理由はない。たまたま、散歩中の君に出会っただけなんだから」

目を逸らして糸部は笑った。
帰りたくない理由があるんでしょ、と付け足して。

私はそれには答えず空を仰ぐ。
絵の具で塗ったような水色の空はまだまだ冬の終わりを告げそうにない。

「……有馬」

「えっ?」

「有馬とは、会いましたか」

ああ、君の弟さんのことか。
糸部はなにか他に思い当たる人物でもいたのか、有馬と口にした途端顔を強ばらせた。
しかしすぐに私の弟だと理解して、表情を和ます。
その一瞬を、私に見られたことに気付きバツの悪そうな顔でそっぽを向いた。

「君の弟さんとは、辞める前に会ったよ。今はおばあちゃんのとこにいるんだね」

そうしてさっきの自分をかき消すように笑った。
なにかがある、だが問いかけることはしなかった。






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