愛罪
僕にとって大切な曲であるように、このフーガは真依子にとっても大切な一曲。
初めて彼女がこの曲が好きだと知ったとき、僕は紛れもなくときめいた。
男は単純だとよく言うが、あながち間違えていないような気がする。
本当、単純だ。
たかが好きな曲が偶然重なっただけだというのに、下品な女性だと思っていた真依子が急に貴重な存在に見えたのだから。
今だってそう。
鍵盤を滑る僕の指先を追って、ときおり静かに瞬きをして曲に酔いしれる彼女が、とても美しく映る。
憎いはずなのに、だ。
フーガに溺れる彼女同様、どうやら僕も、フーガという鮮麗された音色に溺れてしまっているらしい。
「…ありがとう」
僕の指先から作り出されていた音色が消えると、真依子は鍵盤から僕に視線をあげて呟いた。
いつもの、柔らかな微笑を浮かべて。
「…兄はね、一年ほど前に亡くなったわ。27歳だった」
僕が鍵盤に深紅の布を被せていると、ぽつりぽつりと並べるように真依子は語りはじめた。
心なしか低くなった声のトーンからして、本当に彼女が兄を愛していたことが窺える。
「昔から少し体が弱くて、心臓の病気だったわ」
蓋を閉じ、真依子を見あげた僕に彼女は痛々しく微笑んでそう言う。