あの夏よりも、遠いところへ
「……兄ちゃん」
「なんや」
「なんかあったん?」
スミレは生意気だしうるせえけど、敏感なやつだと思う。特に、俺のことに関しては。
北野とは少し違う、女っぽい勘がすげえ。
「なんで?」
「なんでて、またその曲ばっかり弾いてるし。分かりやすいねん、兄ちゃん」
はっとした。広げている楽譜はショパンの『別れの曲』のはずなのに、俺の指は『パガニーニの思い出』を叩いている。
完全な無意識に、自分で嫌気が差した。
「……『サヤ』」
俺じゃない声に、その名前は呼んでほしくない。
「いつまで引きずってんねん。キッモ」
「うっさいわ、ボケ」
サヤとスミレは面識がないし、たぶん妹は、サヤの名前しか知らねえと思う。
いつだったっけか。もうずいぶん前、スミレにはサヤのことを話した。渋々だったけど。うるせえんだもん。兄ちゃんの初恋なんか聞いて、なにが面白いんだよ。
けど、スミレは笑わなかった。ふうんとつぶやいただけで、それ以上も、以下もない。
「……なあ、ほんまにさ、そんなんやと彼女できひんで?」
妹は、『サヤ』のせいで俺に彼女ができないと思っている。まあ半分は正解だけどさ。
あの夏の甘酸っぱさを、苦しさを、もどかしさを超える出会いなんてもう、無いと思うんだ。