あの夏よりも、遠いところへ
無視を決め込んだ俺に、スミレは苛々したようにわざとらしく息を吐いて、後ろからクッションを投げつけてきやがった。
うっぜえな!
妹なんて本当に要らなかったよ。やっぱりきれいな姉ちゃんがよかったぜ。北野はいいよな。あんなにきれいな姉ちゃんがいてさ。
「なあ兄ちゃん、数学教えてーや」
「もうほんま知らんって。忘れたし」
「はあ? 来年は受験生なんやで? 分かってるん?」
受験か。そうか、もうそんな年齢なのか、俺。
みんな、どういう基準で大学を選ぶんだろう。やりたいこととか訊かれても、ぴんと来ねえしなあ。
……そうだな。やりたいこと、か。
「……音大、行こかな」
思いつきだった。なんとなく口からこぼれただけの台詞だったのに、スミレは大事件が起きたかのように騒ぎ倒して、オカンに報告しに行った。
プロになってメシを食っていくとか、そういうつもりでピアノを弾いているわけじゃない。動機は、サヤというたったひとりの存在だけなんだけど。
まあでも、他に、やりたいこともねえし。
北野が言った。ずっと弾き続けていてと。彼女の――サヤのために。
驚いたよ。6年前のあの夏を、北野は見ていたのかと思った。だってサヤは、言ったんだ。
『――私、蓮にはずっとピアノを弾いとってほしい』
まだ、彼女の透き通るあの声で再生される。何度だって再生される。
そして俺は、いまだに、ピアノを弾き続けている。