あの夏よりも、遠いところへ
気付けば、高校生なんかひとりもいない、とても静かな場所まで来ていた。
「あの……ほんまに大丈夫なんすか」
なんだか物凄く立派なところだ。通された8畳くらいの部屋には、強そうなグランドピアノが俺を待ち構えていた。
うちのアップライトピアノなんか比べものになんねえ。やべえ。どきどきする。
「ここは私のテリトリーやから、なにも気にせんでええの」
「テリトリー?」
「そう。私のレッスン室。きょうこの部屋を使う予定の生徒はおらんから、蓮くんが好きに使てくれてええねんよ」
彼女の話によると、これはとても良いピアノで、調律もマメにされているらしい。さすが音大だな。
ここに入学したら、こういうの、全部好きに使えるんだ。
「ねえ、それより、なにか弾いてくれへん?」
「……はい」
なにかと言われて、最初に頭に浮かんだのは、サヤの顔だった。彼女のいちばん好きだった曲。それは同時に、俺のいちばん好きな曲だ。
『パガニーニの思い出』。
それ以外の曲は、なんだか弾く気になれなかったんだ。
すげえ緊張した。だってサヤのオカンがそこで聴いてるんだぜ。しかもこの分野のプロだし。
それでも、6年間ずっと弾き続けてきたおかげか、少しのミスも無く最後まで弾きあげることができた。