あの夏よりも、遠いところへ
兄ちゃんがこんなに必死に話しているのに、目の前の妹は、拗ねたように口を尖らせた。
「……でもな、やっぱり、『サヤ』は嫌やねん。ほんで、コユキも嫌やねんか」
もっとちゃうひとはおらへんの? と妹に言われたとき、当たり前のように北野が頭に浮かんだ。ぽわっと。あの変な寝癖付きでさ。
あ、俺、北野のこと好きなんだなと思った。すげえ自然に。不思議なことに、焦りとか照れとか、そういうのはいっさいねえんだよ。
「……おう。おんで」
「えっ?」
「好きな女。おんで。すげえやつ」
サヤに対する好きとは違う。小雪さんへの思慕とも違う。
北野はするりと俺の中に入ってきて、ずっとそこにいた。いたんだ。気が付かなかったけどさ。もうずっとそこにいて、俺がこの気持ちに気付くことを待ってくれていたんだと思う。
そんな馬鹿げたことを思うくらい、俺はずいぶん前から、北野を好きだったんじゃねえかな。
あの真っ直ぐな目が、ずっと、俺だけを見ていればいいのに。俺だけを見ていてほしい。
ピアノを弾きてえよ。サヤのためじゃない。北野朝日、ただひとりのために。
「ちょっと出掛けてくる」
「は!? どこ行くん!?」
「分からん!」
新しいカッターシャツを着直して、ピアノの上の楽譜をありったけ持ち出して、自転車にまたがった。
後先考えずに行動する癖、ガキのころから、治らねえよなあ。