あの夏よりも、遠いところへ
無言で楽譜を並べる俺に、北野はなにも言わなかった。脚を泳がせながら、ただじっと、俺のことを見ていた。
「……サヤの楽譜やねんか」
「サヤ?」
「初恋のひと。そいつの楽譜やねん。これ全部やで? 一生かかっても弾けへん思うわ」
北野はなにも言わない。でも、手元にある楽譜をひとつ手に取って、少し笑った。優しい顔だ。
「たくさん書き込みがしてある。きれいな字だね」
どうしてこんなにも泣きそうになるのだろう。
世界がつながった気がした。つながって、動き出した。
生きているんだ。俺は、生きている。生きて、目の前のこの女の子を、心から愛しいと思っている。
「――北野は、特別や」
せきを切ったように、想いがぼこぼこと流れ出した。
「俺、めっちゃサヤのこと好きやってんか。いつまでたっても忘れられへんくて、もう一生かかって好きなんちゃうか思てた。けど……北野に、出会った」
ぶわっと風が吹く。何枚かの楽譜がプールに落ちた。笑える。なんだよ、このタイミング。ふざけんな。
仕方なくプールに入って楽譜を拾い集める。ふやふやじゃん。最悪だよ。もう、マジ、色々と最悪。
「清見っ」
……それでも、北野がそこにいてくれるだけで。
振り返ると、彼女はプールの中に立っていた。いまにも倒れそうな顔をしながら。