あの夏よりも、遠いところへ
ふやふやになった楽譜を抱えたまま、急いで彼女のほうへ向かった。
「……水、苦手なんちゃうん?」
「うん。でも、清見がつかまえてくれるでしょ」
つかまえるよ。どこでなにをしていても、北野をつかまえるのは、俺だ。
そのままぎゅっと抱きしめると、安心したのか、北野の身体からふっと力が抜けた。
「俺、北野が好きや」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に出てきた。
「朝日て名前、めっちゃええと思う。最初はオモロイなんて言うたけど、ほんまにな、嘘つかれへん、真っ直ぐな北野に、ぴったりや」
「そう、かな」
「せや。おまえはな、世界を照らす、朝日やねん」
腕の中で、北野が小さく笑ったのが分かった。
「……わたしも、好きだよ。清見のこと。たぶん、すごく」
血液が倍速で流れ始めたんじゃねえかと思った。嬉しくて、恥ずかしくて、くすぐってえの。
北野の真っ直ぐな瞳が、俺を見上げている。
意図せず、くちびるを重ねていた。はじめてじゃねえけど、はじめてな気がした。それくらい震えていた。
くちびるが離れると、目が合って、どきっとする。
「……ねえ、ショパンを弾いてよ」
「え?」
「わたしの好きな――清見の好きな、ショパンを」
弾きたい。もうサヤのためじゃない。北野のために、弾くんだ。
「じゃあ俺、一生、北野専属のピアニストや」
だから一生、傍で聴いていてほしい。