あの夏よりも、遠いところへ
「沙耶の顔、見てあげてくれる?」
「え……」
「ちょっとこわいかな」
まだ気持ちの整理ができていない俺の手を引いて、彼女は奥の部屋へ向かう。
「う、わ……っ」
無理だ。もうこれ以上は足が動かねえよ。
だってあの木製の箱の中に、サヤが寝ているんだろう? そうなんだろう?
気持ち悪いほどの静寂が、嫌だ。
「……無理や。ありえへんもん。こんなんありえへんっ……」
「蓮くん……」
情けないほどの量の涙がぼろぼろこぼれた。実感はまだ無いはずなのに、おかしいな。
「なんで黙って死んだりするん……? なんでなん……なんでっ……」
わんわん泣き喚く俺の左肩を、サヤのオカンの右手がそっと抱き寄せた。
そういえば音楽の先生だと言っていたっけ。彼女もまた、サヤと同じにきれいな指をしている。
「……蓮くん。沙耶は小さいころから心臓の病気を患っとってね、学校にもまともに行けてなかってん。ピアノだけがあの子の友達。私が音大で教えてるからか、いつしかあの子も教師になりたいなんて言うようになってね……なれへんの、自分でも分かってたくせに」
サヤが言っていた『事情』とは、そういうことか。
心臓の病気。そのせいで彼女は夢も諦めたし、バスケもプールも、色々なことを諦めて生きてきたんだ。
死ぬことを分かって、それでもちゃんと、生きていたんだ。