あの夏よりも、遠いところへ
知らなかった。恋って落ちてくるものなのか。
突然目の前に降ってきたそれに、まだ11歳だった俺はただうろたえるばかりだったけれど。
――恋は落ちてくる。
まるで奇跡のように、彼女は突然、俺の目の前に現れた。
「キレーや……」
「……え?」
黒いピアノと白いワンピース。思わずこぼれてしまった俺の一言に振り返った彼女の肌の白さは、この蒸し暑さにあまりに似合わなくて、どきりとした。
「もしかしてきみ、ずっと聴いとったん?」
「えっ……あ、いや、その……」
白いレースのカーテンの向こう側から、彼女がこちらに近付いてくる。
そして目の前にその美しい顔が迫ったとき、俺は持っていたバスケットボールをぽろりと落としていた。ボールは重力に逆らわずころころと転がっていく。
「勝手に家の敷地内に入ってきよって、子どもてほんま、自由やなあ」
そんなことを言いながらも、叱らず、ただ微笑むだけの彼女はまるで天使だ。
ついさっきまであの白と黒の鍵盤を滑っていた指が、そっと俺の頬に触れる。冷たくてさらさらとした感触に、思わず肩が跳ねた。
「……ふふ、泥ついてる」
初めて知る女の温もりに、俺はやっぱり、ただうろたえていたと思う。