あの夏よりも、遠いところへ
……そういえば、どうやってここまで来たんだっけか。
ぼうっとした頭はちゃんと記憶してくれていないけれど、ひとつだけ。ピアノの音が聴こえてきたことだけは、ちゃんと覚えている。
ああそうだ、ピアノ。驚くほど優しくて甘い音に、まるで餌を求める動物のように誘われたんだ、俺。
「ピアノ、好きなん?」
「……そういうわけ、ちゃう、けど」
「あ、しゃべった」
「えっ」
ピアノの知識なんてまったく無い。あえて言うなら、妹が時たま弾いているのを耳にする程度だ。
けれど、全然違ったんだ。妹が弾いているそれと、彼女の音色とでは、まるで違う楽器なんだぜ。
「名前、なんていうん?」
「俺?」
「うん、きみの名前。教えて」
「……清見蓮(きよみ・れん)。蓮は、ハスの蓮」
「へえ、蓮。素敵な名前やね」
初対面の、しかも勝手に家の敷地内に入って、勝手にピアノを盗み聞きしていた小学生に、彼女はそんな言葉をかける。
どんどんスピードを増す鼓動と、高揚する感情。うわ、なんだよ、これ。頬がじゅわっと熱くなったとき、俺は思わず俯いていた。
「も……もう俺、行くし!」
「え?」
「バスケ! そこの公園でバスケしてんねんか! 友達待ってるし!」
転がっているバスケットボールを拾い上げて、彼女の顔は見ないまま、地面を蹴った。