あの夏よりも、遠いところへ

その切ない旋律に、気付けば夢中になっていた。いったい何曲弾くんだよ。もう東の空は紺色に変わり始めているし。

……あ、やばい。今夜は雪ちゃん夕食はいらないんだって、お母さんに伝えないといけないんだった。

まだその演奏をぼうっと聴いていたかったけれど、仕方なくその場を離れた。あーあ。またお母さんがうるさいんだろうな。



「――ただいまっ」


いい匂いがする。どうやら今夜は餃子らしい。


「雪ちゃんご飯いらないって」

「はあ!? もっと早く言ってよ、そんなの」

「忘れてた」

「餃子焼きすぎちゃったじゃないの!」


悔しかったからゴメンナサイは言わなかった。だってお母さんはいつだって、わたしばっかり責めるんだ。

自分で伝えればいいのに、そうしなかった雪ちゃんだって悪いじゃん。いまはメールや電話もあるのにさ。

馬鹿みたい。この家では、いつもわたしが悪者だ。

小雪ちゃんが正義で、朝日は悪。そんなカースト制が、もうあたりまえみたいに、日常に染みついている。


「きょうもどこかふらついてたみたいだけど、課題はちゃんとやったの?」

「新学期早々課題なんて無いよ、馬鹿じゃない」


うるさいなあ。やっぱり高校なんか行かずに、働いて独り立ちすればよかった。

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