あの夏よりも、遠いところへ
そういえばどこかで聴いたことがある音だなあと、音楽室のドアの前で立ち止まった。
こないだ散歩していたときに聴いた、あの旋律によく似ている。あの日もこの曲だった。『パガニーニの思い出』。
ドアに手を掛けてみたけれど、開けるのはやめておいた。
奏者を知ったところでなにになるっていうんだ。音だけでいい。それだけで、人柄がよく分かるから。
窓の外を見ると桜がひらひら散っていて、そろそろ春も終わりかと淋しくなる。
切ない音色と散りゆく花びらのせいで、なぜかわたしがここで泣いちゃいそうだよ。変なの。
手を伸ばした。掴めないことは知っていたけれど、どうしても、地面に落ちて踏まれる前に、わたしの手で掴んであげたかった。
それなのに、ピンク色は面白いほど逃げていく。
なんだよ。やんなっちゃうな。せっかくの人の好意を、この花びらたちさえふいにするのかよ。
「……あ!」
苛々して諦めかけたそのとき、右の手のひらにひとつの桃色が落ちてきた。
まだきれいなままの、鮮やかな桃色。まぶしいほど無垢な色。
「――桜、好きなん?」
ぽとりと落とされた言葉は、シンプルで真っ直ぐな、分かりやすい質問だった。
知っている、この声。この声はたしか、そうだ。