あの夏よりも、遠いところへ
「……清見、クン」
いつも後ろの席から聴こえる、あの透明な声。
「こんなところでなにしてん? めっちゃびっくりしたわ」
「音楽室からピアノの音がして、それで……」
「もしかして聴かれとった? うわ、恥ずかし!」
はにかんだ彼の顔は、夕陽を受けてオレンジに輝いていた。
……そんな、まさか。冗談みたいだ。
こんな男があの切ない旋律を生み出しているなんて、地球が逆向きに回り出したっておかしくない。
「……清見が弾いてたの?」
「おう。まさか誰かに聴かれてるとは思てへんかったけど」
「すごいね」
「え?」
「すごい。あんな音、誰にだって出せるわけじゃないよ」
率直な感想だった。雪ちゃんのピアノもすごいけど、それとはまた少し違う、『すごい』。
言葉にはできないけれど、優しいその音に、わたしはたしかにどきどきしていた。
「……やばい、めっちゃ照れる」
「えっ?」
「あはは、めっちゃ照れんねんけど」
くにゃっと笑った顔を隠すように右手で顔を覆ってみせる彼の指は、とても長くて驚いた。
ピアニストになるために生まれてきたような、そんな指。きれいな手をしているんだなと感心した。