あの夏よりも、遠いところへ

いつの間にか花びらは手のひらから逃げている。なんだよ。せっかく馬鹿みたいにがんばって、やっと掴んだのに。


「だってさあ、北野はもっとコワイ奴か思てた」

「コワイ?」

「いっつもむすっとしてるし、誰かとしゃべってるとこあんまり見ぃひんもん。最初に話しかけたときも不機嫌そうやったしさ」


それはあんたがいきなり失礼なことを言うからでしょう。


「やからな、びっくりしてん。北野みたいなんに褒められると、こんなに嬉しいねんな」


『北野みたいなん』がどんなのかは分からないけれど、まあ、嬉しそうにしてくれてよかった。

わたしこそ、素敵な演奏が聴けて、とっても嬉しい。


「わたし、ショパン、好きなんだ」

「そうなん? いっしょ!」

「うん。そりゃ、好きじゃないとあんな演奏できないだろうね」


少し意外だけれど。だって清見って、ピアノやショパンっていうイメージはおろか、楽譜すら読めなさそうなのに。

くにゃっとした笑顔がわたしに向き直って、そしたら途端に真剣な顔に変わる。うかがうように小さく開いた彼のくちびるからは、少し弱々しい声がこぼれた。


「……なあ、怒ってる? オモロイ名前て言うたこと」

「別に。なに、いまさら謝るの?」

「いや、謝らへん。だって『オモロイ』て、大阪では最上級の褒め言葉やもん」


なんだよ、それ。こっちは東京生まれ、東京育ちだっての。

清見蓮。よく分からないやつだな。ショパンが好きな、ちょっと面倒くさそうだけど、なんだかすごいピアニスト。

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