【完】『海の擾乱』
5 さらば六波羅
建治二年が明けた。
すでに帰洛を果たした行藤は、正月の行事が片付いてのち、熙子の次男を年が明けた三月に、元服させている。
このとき行藤は一条家経に頼んで、前の内大臣である三条公親を烏帽子親とし、
「時通(ときみち)」
と名を授与せしめている。
「なぜ三条どのでなければならなんだのでございまするか?」
という藤子に、
「公親どのの娘御の御匣局(みくしげのつぼね)どのは、帝の女房衆でも筆頭にあらせられる」
ときの後宇多天皇の中宮に仕える御匣局は、文永十一年の践祚の折も重要な先導役を任されるなど、宮中で絶大な力を持つ。
それに──と行藤は続ける。
「鎌倉の将軍惟康親王さまには、いまだ皇子がおわさぬ」
そのような折に後深草上皇の子を、三条公親の別の娘が懐妊したのである。
「そのお子が仮に皇子であられた暁には、元服ののち将軍宣下を賜るよう願い出よ、と鎌倉から内々の話も来ておる」
将来の将軍になるかも知れない人物と縁を築いておくのは、
「何より、名越家と熙子のためでもあるのだ」
傾いた名越家のことが行藤は気がかりであったらしい。
「されど」
藤子はいう。
「なにゆえそこまで…」
「われら北条以外の者は、いつまでも北条が栄えると誰も思ってはおらぬ」
「それは、また戦でも起こるとでも?」
行藤は無言で頷いた。
「この度の異国との合戦でそなたも分かったであろうが、京も鎌倉もまとまってはおらぬ」
それには二階堂家も藤子の久我家も、それぞれ生きる術を持たなくてはならない、というのが行藤の見識であった。
「それに名越家が残れば、鎌倉も迂闊に動くことはできぬはず」
藤子はハッとした。
どうやら行藤は、執権北条時宗が推し進める一極集中の体制に、異論を持っているようであった。
日に日に暑くなってきた。
が。
春先頃から咳が続く探題の赤橋義宗は、首に襟巻をしたままでいる。
「首が寒いのだ」
という義宗が、行藤は心配でもあった。
「いかがなされたのでございますか?」
「風邪にしては胸がつらいのだ」
ゲホゲホ、と義宗は痛々しい咳が出ている。
「かように病がちでは探題のお役目に差し障りましょうに…」
このままでは義宗の命に関わると見て、行藤もさすがにこれだけは鎌倉の連署で義宗のおじの塩田義政へ、早馬を差し立てざるを得なかった。
書状を一瞥した義政は、
「このままでは義宗の身がもたぬではないか」
と、北条時宗に義宗と自らの役職の入れ替えを願い出た。
「なにとぞ、伏してお願い申し上げ奉りまする!」
義政なりの必死の懇願でもある。
が、
「それなら義宗どのの後任を早晩、決めれば良いだけではないか」
といい、時宗の専権で後任を北条時村と定めたのである。
義政からの返事は六波羅に届けられた。
「…これではまるで、義宗どのの罷免ではないか!」
時宗の人事に行藤は珍しく怒りで脇息を蹴飛ばした。
すぐ六波羅評定衆の後藤基頼を呼び、
「…義宗どのの後任は、北条時村どのとご裁下があったそうじゃ」
「…まことにございますか?!」
黙って行藤は、首を縦に振った。
「だがこのままでは義宗どのを、漫然と辞めさせるばかりとなってしまう」
そこで、と行藤は、
「引き換えに平頼綱の官位叙任を取り止めにしていただくよう、申し入れを致した」
とすでに手を打ったことを打ち明けた。
これには行藤なりの計算がある。
(頼綱が叙任すれば幕府の容喙は増える)
朝廷内にそうした空気がくすぶっていたのを、知っていたのである。
後宇多天皇の即位ののち、東宮として後深草上皇の皇子の煕仁親王が立太子したのだが、これは鎌倉の強い要請によるものである。
「いかに鎌倉が強いとはいえ、かしこくも日嗣の御子を勝手に武士が決めるとは」
前代未聞である、というのである。
そこを行藤は衝いたのである。
(御内人に官位なぞ要らぬ)
たかが陪臣ではないか、と行藤の内心には腹立たしい感情がある。
そこには、
「君は君たり、臣は臣たり」
という思想が裏打ちされており、君臣の別を隔てることが秩序である、と行藤はどうやら認識していたらしかった。
で。
九月十一日。
三条家の娘が産んだ後深草上皇の子は、幕府が望んだ男子であった。
のちの久明親王である。
この久明親王の鎌倉下向の件は北条時村が奔走することになるのだが、行藤が京にいなかったために時村は、調整に苦戦を強いられるに至る。
が。
それは時村が六波羅探題に就いて、はるかのちのことであった。
建治二年十二月。
鎌倉へ下る赤橋義宗と入れ替わりで、新しく六波羅の探題となった北条時村が、上洛を果たした。
赤橋義宗と北条時村の引き継ぎも無事に済み、
「行藤どの、世話になり申した」
と、北条時輔の征討や文永の戦い…と、苦楽を共にした義宗は、行藤の見送りを受けながら、鎌倉へと下向していったのであった。
北条時村。
さきにも触れたが、七代目の執権北条政村の嫡男でもある。
もともと奉行衆や寄合衆といった職責も無難にこなす事務方としてはうってつけの人物であり、歳が行藤と四歳しか違わないのもあって、
「朝廷のことは不案内ゆえ、行藤たのむぞ」
と、四歳下の行藤を実弟のように頼みにしていたのである。
年が建治三年にあらたまった。
蒙古からの使節は龍ノ口の刑場で毎度のごとく、首をはねられている。
一条家経なんぞはあまりの血なまぐささに、
「あないに首ばかりはねて、時宗さんは国を戦で焼け野原にでもなさるおつもりか」
と行藤にこぼしたぐらいである。
何しろ建治元年から数えただけで、六人もはねられている。
京の町ではまた戦でもなるのではないかと不穏な空気に包まれているなか、四月になった。
珍しく鎌倉から、早馬が二階堂家へ到着した。
「鎌倉の行有どのより使いが参りました!」
さらに珍しい父からの使いに行藤は驚いたが、
「申し上げます!」
「うむ」
眠そうな行藤はあくびをしながら、脇息にもたれている。
「連署どのが自由出家のうえ、出奔されたとの由にございます!」
「…それは、どういうことだ」
訊くのも無理はない。
連署の塩田義政が執権北条時宗の許可もなく出家したあげく、勝手に領国の信濃へ帰ってしまった…というのである。
「…ということは、追討の下知でも出たのか?」
すでに行藤はむっくり身を起こしている。
「お下知は出ておりませぬ」
「では、なんだ」
少し行藤はいらついている。
「それが…判官様におかれましては、同じくして政所執事の内命が、下りましてございまする」
「それは…父上のお役ではないか」
行藤のいる二階堂出羽守家の代々は政所執事が最高位である。
行藤の就任は行有の引退を意味していた。
「冗談ではない」
行藤は珍しく怒鳴った。
「誰が代わりに公卿衆との周旋をいたすのだ」
その通りである。
これまで朝廷との間には難しい局面もあったが、そのたびに行藤が公卿衆と渡り合ってきた。
いっぽう。
公卿たちも、武家と公家の中間のような二階堂家の行藤であったからこそ、うまく折り合いをつけることもできたのである。
それがいなくなれば融和ははかれない。
むろんそうしたことは鎌倉ではわからない。
「いったい鎌倉で」
何が起きているのか、皆目見当も行藤はつかないままでいる。
ひとまず時村に言上したのだが、
「われら六波羅には関わりなき話ではないのか」
と驚くべきであろう、冷淡な反応を示した。
「いったいそこもとは何年この京におる」
「十二年にございます」
そうか十二年か、と時村はいい、
「実は鎌倉は今、御家人と御内人で、どちらが幕府の手綱を取るか、もめておってのう」
「それは存じております」
だから行藤も朝廷に内奏して、平頼綱の任官を却下させたではないか。
「そちも知っておろうが、執権どのはお世継ぎの元服を考えておわす」
時村の見立てではどうやら、時宗に権威を集約させて対外の政策を強化する、という目論見であるらしかった。
このようなとき。
五月には探題南方の佐介時国に随行して上洛していた佐介時盛が亡くなった。
北条一門の重鎮を失い、さらに六月になると、病気で療養を余儀なくされていた赤橋義宗が評定衆に引っ張り出され、鎌倉は混乱の様子を露呈し始めており、
「鎌倉はよほど使える者がおらぬとみえる」
と時村は、にべもなかった。
十一月。
六波羅探題に目代が設けられることとなり、北方では行藤より八歳上の後藤基頼が命ぜられた。
特に行藤は不満は感じなかった。
が。
六波羅が新しく変わるのと同時に、居場所がなくなってゆくように感じられたらしい。
折しも。
十二年つとめた六波羅大番役の退任というきっかけもあり、
「京を出る」
と藤子に宣言したのである。
「いずれへ参られるのでございまするか?」
「甲斐の所領へ参る」
「…甲斐へ?」
「どうやら悪党が出たようでな」
甲斐の塩山寺の一帯に、二階堂家の荘園がある。
「藤子は京へ残れ。定藤と参る」
表向きは領内の悪党の征討を理由としており、別に誰も怪しむものではない。
翌月。
そうして行藤は、住み慣れ親しんだ京を、手勢を率いて離れたのである。
その頃。
鎌倉の赤橋義宗は持病がかなり悪化していたが、それでも評定の席に出ていた。
「さすがに療養をさせてはどうかと…」
という宇都宮景綱の進言を、なぜか頼綱が潰していた。
その日も雪で、なぜか鎌倉は異様に寒かったのである。
義宗が出仕してきた。
が。
廊下で欄干に掴まり、大量に血を吐いたあともんどり打つようにして倒れ込んでしまった。
「赤橋どの…赤橋どの!」
そばの庇番の侍が駆け寄った。
「おのおのがた、一大事にございますぞ!」
周囲はざわつき出す、使い番が飛ぶ、あたりの雪は血染めで真っ赤になってゆく…と陰惨たる様相である。
すぐに薬師が馳せつけたが、
「事切れてございます」
とかぶりを振った。
書状を甲斐で受け取った行藤は、
「義政どのの不安が、当たってしまわれた」
といい、もはやなすすべもない有り様であった。