【完】『海の擾乱』
7 進むべき道
この年は三月から弘安元年となった。
鎌倉の町では、諸国で頻発している悪党による強盗や追い剥ぎの対策が、喫緊の議題となっている。
で。
行藤は政所執事である父の行有の名代として、評定に列することを許され、議席に参加することが増えていた。
が。
総動員をかけて連日開かれる評定でもなかなか有効な手立てが示されずにあり、元と名を変えた蒙古との対処もあって、
「いっそのこと、役を増やしては?」
という行藤の提案すら、まともに取り合ってもらえぬ有り様であった。
「まあ、取り合ってもらえぬのも仕方がないといえば、それまでなのだが」
と嫡子の貞藤に笑い話としてもらすことはあったが、
「京を留守にするのだけは困る」
と、ちらりと本音をのぞかせることもあった。
半年ばかり過ぎた。
評定が終わり会所から退出しようとした行藤に、
「お待ちくだされ、二階堂どの」
と声をかけたのがあった。
振り返ると、宇都宮景綱である。
「これは宇都宮どの、何か…?」
「例の役の件、執権どのがぜひに意見をつぶさに聞きたいと仰せで」
と景綱の口から出たのは、行藤ですら忘れかけていた新設の治安の役職のことであった。
会所の廊下を戻ると、
「行藤どの、お待ちしておりました」
時宗がすでに上段にある。
「景綱どのも」
と時宗は景綱にも同席を促した。
「新しく悪党を退治する役目を設けよ、と貴殿は申されたが、何か妙案がおありならば何なりと、この時宗まで申されよ」
行藤は詰まった。
今までの鎌倉なら新参者の具申なぞ通るものではなかったから、そのつもりで行藤も半ば思い付きでいったまでなのである。
「おそれながら」
と行藤は開き直って、思い付きで副案がないことを、あるがままに打ち明けた。
「かようにございますれば、鎌倉どののお役には到底かないませぬゆえ」
京に戻る、と行藤は手をついた。
しかし。
「貴殿は相変わらず愉快よのう」
時宗は高笑いをし始めたのである。
「そこまで腹に何も溜めず物言いされるご仁もめずらしい」
「…は?」
行藤はキョトンとなった。
「人はああいう場に立たされるとあのこの言い訳がましきことを申すものだが」
貴殿はそれがない、と時宗は続け、
「国難ともいわるべき今、もしかすると貴殿のごとく見晴らしのよい者が一人はおらねば、難局は乗り切れぬものとみえる」
「畏れ入りましてございまする」
「貴殿の案はいささか金がかかりすぎるゆえ、採るわけにはゆかなんだが」
目の付け所はさすが青砥どのが手塩にかけて薫陶されただけのことはある、といい、
「貴殿を京へ置いたままにするのは惜しい。鎌倉へ下る気はござらぬか」
「妻も子も京に置いたままにございますれば、すぐは難しいかと…」
時宗は上機嫌で、
「すぐにとはいわぬ。支度が整い次第、鎌倉へ参られよ」
行藤は再び平伏した。
一時的な帰洛の途についたのは秋も暮れ始めた頃で、ようやく京に戻ったのは師走に入ってからである。
「藤子は生まれ育った京が住み慣れておろう」
といい、要は単身で鎌倉へ下るプランを提示した。
だが。
「わたくしは鎌倉へお供いたします」
と藤子からは、驚くべき返答がかえってきた。
「京に戻れぬかも知れぬぞ」
「構いませぬ」
毅然と藤子はいった。
「たとえお許しがなくともわたくしは、勝手に鎌倉へついて参りまする」
「…好きにいたせ」
苦笑いを浮かべながら、内心は喜んでいるようにも思われた。
弘安二年が明けた。
一門から養女として迎えた理趣尼を屋敷の留守居に据え、行藤と藤子、貞藤の親子をはじめ熙子と名越篤時、時通など二階堂一門は、住み慣れ親しんだ六波羅を離れ鎌倉へ移った。
八幡宮から名越の方へ抜けた永福寺下の二階堂屋敷へ入ったのは、弥生の頃である。
庭は枯山水が流行であったのを、
「庭は京と同じにせよ」
と行藤はあえて、桜や楓を池の周りに植えた寝殿造に改装を加えた。
庭の作事で屋敷が騒がしいなか、
「申し上げます」
と注進が来た。
「河野通有どの、まかり越しましてございます」
河野通有。
知らぬ間柄ではない。
河野家は代々伊予の水軍の長であり、六波羅探題の配下として瀬戸内の海の警備を行なっている。
行藤も何度か六波羅で対面したことがあり、互いに面識もある。
通有本人も、行藤の父の行有に元服の烏帽子親として偏諱をもらっており、深くはないが往き来はある。
その河野通有が鎌倉へ来たからには、
(元との戦に伊予の水軍も駆り出されるのか)
という直感が行藤にははたらいた。
「行藤どの、久しいのう」
「通有どのも息災で何より」
歳も四つしか違わない。
「この通有が鎌倉に呼び出されるということは、とりもなおさず元との戦が近いということよ」
通有は水軍の将らしい豪快さで笑い飛ばした。
ところが。
その通有は何やら母子連れらしき者を、引きつれている。
「通有どの、それなるは…?」
「…これはな、それがしが駿河でかくまった」
身元はよく分からぬが、持ち物からして名のある方の縁者ではないか…と通有は小声で耳打ちした。
「それがしが駿河の清水で風待ちをしておったとき、湊の近くで野伏に遭うて命からがら逃げてきたが」
父親は深傷を負っており、ほどなく息絶えた──と通有はかいつまんで説明をした。
「して、父親の名は?」
「伊勢の地頭で佐々木朝綱どのと申しておった」
何でも田畑のいさかいで、鎌倉の引付衆へ訴えて出る道中であったらしい…と、通有は少しあわれんだ顔をした。
「さすがに可哀想で、そこでそれがしが清水の湊から船で鎌倉まで母子を乗せてやったのだ」
通有にはそうした人のよさがあるらしい。
「こちらのお方は、さきの六波羅探題の目代、二階堂判官どのである」
向き直ると通有は、
「鎌倉どのとは義理の従兄弟の間柄にして、公卿にも顔が利く。何か申したき儀があれば」
今のうちに申し上げておけ、と通有はいった。
母親らしき女は深々と頭を黙って下げた。
「すまぬが河野の一門は、鎌倉に屋敷がない」
これには事情があった。
行藤が生まれる二十年ばかり前の承久の乱の折、河野一族は敵味方に分かれた。
その時、北条時政の女婿にあたる通有の曾祖父は幕府に加勢したが、他は朝廷についたため鎌倉の河野家の屋敷は召し上げられていたのである。
そのあと伊予の守護職だけは祖父の時に復職したものの、まだ鎌倉の屋敷はないままである。
「悪いがこの母子を住まわせてはやれぬか」
通有は頭を下げた。
「そこもとにしか頼めぬのだ」
行藤は一瞬、
(藤子が聞いたらまた目をつり上げるであろう)
とは思ったが、断る理由もないので引き受けることとなった。
翌日から行藤は預かった子に五郎丸と名を与え、
「この子を弟と同様にせよ」
と歳が近い名越家の篤時と時通の学友とした。
三人の子は行藤がみずから素読や書、漢学を教え、それぞれもまた期待に応えるように次々、論語や孟子をそらんじてゆく。
が。
篤時と時通はおとなしいのに対し、五郎丸だけは行藤の教鞭に食って掛かることがあった。
「兄上、あれでは困ります」
と熙子は行藤に抗議をしたが、
「名越家の子はむしろおとなしいほうが、変に目をつけられずに済む」
といい、一顧だにしなかった。
問題は五郎丸である。
数日して…。
行藤が出仕して留守の間に五郎丸が屋敷を抜け出すという事件が起きた。
連れ帰ったのは、意外にも鎌倉へ河野通有と共に来ていた智真という僧であった。
行藤は不在であったが、
「この子は武士には向きませぬ」
出家せしめられませ、とのみ番兵にいい、智真は鎌倉から辞去したのであった。
ちなみに智真はのちに一遍と名を改め、踊り念仏で知られる一遍宗の宗祖となるが、それははるかにのちの話である。
仔細を聞いた行藤は、五郎丸を会所の真ん中へ座らせ、
「そなたに訊ねたき儀がある」
と、まるで大人を扱うような体を取った。
「そなたは何ゆえかように刃向かうのだ?」
何か思うところがあるのではあるまいか、と行藤は、五郎丸に問うた。
黙っていた。
が。
「…五郎丸は、武士は嫌いでございます」
行藤は驚いた顔をし、やがて笑い出した。
「おかしくはございませぬ」
「いやいや」
行藤は扇で打ち消すそぶりをしてから、
「…実はこの行藤も武士は嫌でな」
「では判官さまはなぜ武士でいるのでございまするか?」
行藤は頷いた。
「わしにはただ一人の二階堂の曹司という、一人ではどうにもならぬ縛りがあった故、諦めて武士となった」
「縛り?」
「人の世には何かしら人を縛り付けるものがある。それが武士の身分であり御役であり、はたまた銭や田畑、惚れた者であったりする」
だがそなたは違う、といい、
「そなたには何の縛りもない。思いのまま生きることが出来よう」
そなた出家する気はあるか──と行藤は訊いた。
五郎丸は黙って頷いた。
「ならばそなたには、それが良いように思われる」
何物にも縛られてはならぬ──この行藤の言葉はのちに五郎丸の進路を決めることになるのであった。
余談ながら五郎丸はのちに剃髪して智曜と名乗り、のちに夢窓疎石と名を変えるに至る。
はるかな後日、夢窓疎石は回顧して「道暁公(行藤)、博覧にして悠揚迫らず、また寛にして敏なり」と述懐している。