【完】『海の擾乱』
8 決断の時
智曜となった五郎丸──のちの夢窓疎石である──の件で行藤が鎌倉にあった頃、博多では少弐景資の指図のもと、あちこち砂浜に途方もなく長い石塁が築かれつつあった。
「良いか、いつ敵が来るか分からんのだぞ!」
もたもたするではない、と景資は見廻りながらはっぱをかけてゆく。
そこへ。
新たに鎮西探題となった、金沢実政が検分に馬であらわれた。
実時の子である。
「少弐どの、随分急かしておりますなあ」
「元の襲来に早く備えるのが、われら太宰少弐のつとめにございます」
「そこまで慌てずとも良いのではあるまいか?」
「善は急げと申しますゆえ」
そうしたものかのう、と実政はゆらゆらと馬で見回ってゆくのであった。
「腑抜けめ…何と悠長な」
後ろから苦々しい顔で島津久長がやってきた。
「島津どの、そう声高に聞こえたら事が荒立ちましょう」
「構わぬ!」
島津久長は扇を折らんばかりに石をひっぱたいた。
「だいたいこの前の戦で、鎌倉は恩賞もろくに出さなんだではないか」
久長の兄の島津忠宗に薩摩守護の安堵が申し渡されただけである。
「それこそ竹崎どののごとく、鎌倉まで行かねば手柄などありつけぬのかのう」
確かに。
島津隊は敵の首を約百五十ばかりあげたにも関わらず、褒美は薄かった。
「あれでは家来を養うのもままならぬ」
島津久長は長いため息を漏らした。
確かに。
在郷の御家人の間で不平がくすぶっているのは明らかであった。
中には竹崎季長のように、鎌倉まで訴訟に出向き裁定を得てくる者もあり、太宰府だけではどうにもならないほころびも、生じてきている。
(ここは一つ、鎌倉から)
然るべき人物を派遣してもらうよりない──と景資は痛烈に感じたのであった。
鎌倉では。
北条時宗をはじめ主だった評定衆が、九州へ派遣する人選に紛糾をしていた。
「ここは鎌倉一の兵を持つ安達どのが適任かと存じまする」
といったのは、侍所所司となっていた平頼綱である。
が。
「安達どのがおらねば鎌倉は手薄になる。船で鎌倉にじかに攻め込まれた場合には、いかがいたすのだ?」
意外にも抗弁したのは行藤の父で政所執事の、二階堂行有である。
一座は驚きを隠さなかった。
(あの昼松明の行有どのが)
どこかぼんやりとしているところから昼松明と呼ばれ、普段は小馬鹿にすらされている行有だが、この日は違った。
「鎮西探題として一門の金沢どのがおられる以上、武の安達どのより、恩賞や式目に通じた者を差し向けるのが、よろしゅうございましょう」
これからの戦は後始末も考えねばなりませぬ、というのである。
「されど行有どの、戦は勝たねばなりませぬ」
「ならば、そういう頼綱が下れば良いではないか」
侍所別当の安達泰盛がいった。
「それがしは御内人にございますれば、身分が軽うございまする」
「また貴様はそうやって逃げるのか」
安達泰盛は前回の戦の頼綱の対応を並べた上で厳しい批難を浴びせた。
「…では、誰が適任なのだ?」
時宗舎弟の北条宗頼がしびれを切らした。
みな黙った。
「恐れながら一人、心当たりがおりまする」
宇都宮景綱が進み出た。
「誰なのだ?」
「二階堂判官行藤どのこそ、適任かと存じまする」
満堂からはどよめきの声があがった。
宇都宮景綱はいう。
「二階堂判官どのならば、かねて六波羅に長く住まい西国の御家人にも朝廷にも、言葉は汚のうございますが、つぶしがききまする」
さらに、と続け、
「法や故実にも明るく執権どのの義理のいとこでもございます」
万が一和睦の交渉が必要となった段階には充分有利である、という宇都宮景綱の見解は、この場では劇的に魅力あるものであった。
「さすがは宇都宮どの」
予想外だが頼綱がその話に乗った。
頼綱は、敗戦となったとき責任は行藤にあり、として二階堂一門の力を削ぐ手も打てる…と値踏みしたのである。
ともあれ。
永福寺下の二階堂屋敷に、使いは飛んだ。
来た。
見当はついている。
行藤は使者をあえて待たせ、藤子に手伝わせて装束を直垂へあらためる間に意をまとめた。
「…戦でございますか」
藤子は不安げな顔をした。
「多分、九州へ下れという話であろう」
だがタダでは行かぬぞ、と笑い飛ばすと行藤は対面所まで出た。
「お待たせいたした」
使者の口から出たのは、読み通り九州への出陣の打診である。
「執権どのにいくつかうかがいたき儀があるゆえ」
参るとお伝えあれ、といい使者を返し、行藤は藤子を呼び、
「そなたがかつて、久我家からもらい受けた牛車があろう」
借りるぞ、と竜胆車の模様がついた牛車に乗ると屋敷を出た。
幕府の議場では相変わらず議論が紛糾している。
「二階堂判官どの、まかり越しましてございます」
それが、と尾藤時綱が口ごもった。
「いかがしたのだ」
「判官どのは牛車にて参られた由…」
聞いた途端、頼綱は呆気に取られた顔をした。
「牛車とは…何とも白粉臭いのう」
そういうと安達泰盛は嫌な顔を作ったのであった。
そこへ。
行藤があらわれた。
このとき行藤は、白綾の練絹に鶴の紋様が入った派手な直衣に立烏帽子という、まるで大臣か堂上人のような装束を着けていた。
全員が気圧されている。
「この度は九州出陣の内命を賜り、武門のこの上なき誉れに存じ奉りまする」
して、と行藤は、
「出陣に際し願いがございまする」
「何なりと申せ」
時宗は応じた。
「それがしは見ての通り、公家と武家の間のごとき者ゆえ、然るべき加勢を幾人かに頼みたく存じまする」
「心あてはあるのか」
「まずは安達盛宗どのに、加勢を頼みたく存じまする」
盛宗は泰盛の嫡男である。
「あとは、船戦となりましょうゆえ河野通有どのと、西国一の武門である安芸の武田信時どのに加勢を頼みたく存じまする」
それを鎌倉よりお下知を下さればありがたきことにございまする、と行藤は平伏した。
一同は気ままな行藤のいいざまに口をポカンと開けた者すらある。
「さような勝手が、通るとでもお思いか!」
頼綱は苦虫を噛んだ顔を行藤に向けた。
が。
「もし加勢が得られぬとあれば九州の武士たちは容易には従いますまい」
鎌倉は九州を見捨てるおつもりか…と元軍に寝返って叛旗を翻されたらばいかがなされますか、と行藤は指摘した。
「もっとも頼綱どのが始末出来るのであれば、別に構いませぬが」
頼綱はますます渋い顔をした。
そこは最も鎌倉側が恐れる危険性でもある。
「行藤どのが申し条、もっともである」
答えたのは極楽寺業時である。
時宗も異議はなかったらしく、
「申し分通り、好きなだけ加勢を連れて行くがよい」
無論、これだけ無茶振りをしたのである。
(当たり前だがこれだけ無理を言うておけば、易々と早くは進まぬ)
この辺りが、異色の武辺と称されていた行藤ならではの眼識ではあった。
ここで。
先の鷹島での合戦でわずかにふれた、松浦水軍の佐志房(ふさし)の消息についてふれなければならない。
佐志軍の惣領を房から受け継いだのは一門の継(つぐる)である。
房は元へ渡った。
無謀だが、皇帝フビライの暗殺を画策し、あろうことか。城がある大都に潜入したのである。
やがて。
捕縛された。
フビライは海戦に長けた房を味方につけるべく、半年以上もの間、首をはねることなく説得を重ねた。
が。
房の不退転の決意は明らかであり、
「松浦を離れたときより、腹は決まっておる」
と決然たる信念を述べた。
フビライもこれには諦めざるを得なかったらしく、
「梟首せよ」
といい、房は数日後に処刑されている。
弘安三年となった。
元の船大工の作事場では、一般の商船の軍船への改装が進められており、
「九百艘揃えよ」
という命令でもあったので、作業はまさしく急ピッチであった。
この噂は伊予に戻っていた河野通有の耳に入っており、
「いよいよ来たか」
河野の家名を高めるはこのときぞ、と通有は家来を呼び、
「よいか、我等水軍は水軍らしゅう戦う」
といい、潮見の家来に命じ、博多や長門、安芸に肥前といった海の検分を指図したのであった。
「良いか、いつ敵が来るか分からんのだぞ!」
もたもたするではない、と景資は見廻りながらはっぱをかけてゆく。
そこへ。
新たに鎮西探題となった、金沢実政が検分に馬であらわれた。
実時の子である。
「少弐どの、随分急かしておりますなあ」
「元の襲来に早く備えるのが、われら太宰少弐のつとめにございます」
「そこまで慌てずとも良いのではあるまいか?」
「善は急げと申しますゆえ」
そうしたものかのう、と実政はゆらゆらと馬で見回ってゆくのであった。
「腑抜けめ…何と悠長な」
後ろから苦々しい顔で島津久長がやってきた。
「島津どの、そう声高に聞こえたら事が荒立ちましょう」
「構わぬ!」
島津久長は扇を折らんばかりに石をひっぱたいた。
「だいたいこの前の戦で、鎌倉は恩賞もろくに出さなんだではないか」
久長の兄の島津忠宗に薩摩守護の安堵が申し渡されただけである。
「それこそ竹崎どののごとく、鎌倉まで行かねば手柄などありつけぬのかのう」
確かに。
島津隊は敵の首を約百五十ばかりあげたにも関わらず、褒美は薄かった。
「あれでは家来を養うのもままならぬ」
島津久長は長いため息を漏らした。
確かに。
在郷の御家人の間で不平がくすぶっているのは明らかであった。
中には竹崎季長のように、鎌倉まで訴訟に出向き裁定を得てくる者もあり、太宰府だけではどうにもならないほころびも、生じてきている。
(ここは一つ、鎌倉から)
然るべき人物を派遣してもらうよりない──と景資は痛烈に感じたのであった。
鎌倉では。
北条時宗をはじめ主だった評定衆が、九州へ派遣する人選に紛糾をしていた。
「ここは鎌倉一の兵を持つ安達どのが適任かと存じまする」
といったのは、侍所所司となっていた平頼綱である。
が。
「安達どのがおらねば鎌倉は手薄になる。船で鎌倉にじかに攻め込まれた場合には、いかがいたすのだ?」
意外にも抗弁したのは行藤の父で政所執事の、二階堂行有である。
一座は驚きを隠さなかった。
(あの昼松明の行有どのが)
どこかぼんやりとしているところから昼松明と呼ばれ、普段は小馬鹿にすらされている行有だが、この日は違った。
「鎮西探題として一門の金沢どのがおられる以上、武の安達どのより、恩賞や式目に通じた者を差し向けるのが、よろしゅうございましょう」
これからの戦は後始末も考えねばなりませぬ、というのである。
「されど行有どの、戦は勝たねばなりませぬ」
「ならば、そういう頼綱が下れば良いではないか」
侍所別当の安達泰盛がいった。
「それがしは御内人にございますれば、身分が軽うございまする」
「また貴様はそうやって逃げるのか」
安達泰盛は前回の戦の頼綱の対応を並べた上で厳しい批難を浴びせた。
「…では、誰が適任なのだ?」
時宗舎弟の北条宗頼がしびれを切らした。
みな黙った。
「恐れながら一人、心当たりがおりまする」
宇都宮景綱が進み出た。
「誰なのだ?」
「二階堂判官行藤どのこそ、適任かと存じまする」
満堂からはどよめきの声があがった。
宇都宮景綱はいう。
「二階堂判官どのならば、かねて六波羅に長く住まい西国の御家人にも朝廷にも、言葉は汚のうございますが、つぶしがききまする」
さらに、と続け、
「法や故実にも明るく執権どのの義理のいとこでもございます」
万が一和睦の交渉が必要となった段階には充分有利である、という宇都宮景綱の見解は、この場では劇的に魅力あるものであった。
「さすがは宇都宮どの」
予想外だが頼綱がその話に乗った。
頼綱は、敗戦となったとき責任は行藤にあり、として二階堂一門の力を削ぐ手も打てる…と値踏みしたのである。
ともあれ。
永福寺下の二階堂屋敷に、使いは飛んだ。
来た。
見当はついている。
行藤は使者をあえて待たせ、藤子に手伝わせて装束を直垂へあらためる間に意をまとめた。
「…戦でございますか」
藤子は不安げな顔をした。
「多分、九州へ下れという話であろう」
だがタダでは行かぬぞ、と笑い飛ばすと行藤は対面所まで出た。
「お待たせいたした」
使者の口から出たのは、読み通り九州への出陣の打診である。
「執権どのにいくつかうかがいたき儀があるゆえ」
参るとお伝えあれ、といい使者を返し、行藤は藤子を呼び、
「そなたがかつて、久我家からもらい受けた牛車があろう」
借りるぞ、と竜胆車の模様がついた牛車に乗ると屋敷を出た。
幕府の議場では相変わらず議論が紛糾している。
「二階堂判官どの、まかり越しましてございます」
それが、と尾藤時綱が口ごもった。
「いかがしたのだ」
「判官どのは牛車にて参られた由…」
聞いた途端、頼綱は呆気に取られた顔をした。
「牛車とは…何とも白粉臭いのう」
そういうと安達泰盛は嫌な顔を作ったのであった。
そこへ。
行藤があらわれた。
このとき行藤は、白綾の練絹に鶴の紋様が入った派手な直衣に立烏帽子という、まるで大臣か堂上人のような装束を着けていた。
全員が気圧されている。
「この度は九州出陣の内命を賜り、武門のこの上なき誉れに存じ奉りまする」
して、と行藤は、
「出陣に際し願いがございまする」
「何なりと申せ」
時宗は応じた。
「それがしは見ての通り、公家と武家の間のごとき者ゆえ、然るべき加勢を幾人かに頼みたく存じまする」
「心あてはあるのか」
「まずは安達盛宗どのに、加勢を頼みたく存じまする」
盛宗は泰盛の嫡男である。
「あとは、船戦となりましょうゆえ河野通有どのと、西国一の武門である安芸の武田信時どのに加勢を頼みたく存じまする」
それを鎌倉よりお下知を下さればありがたきことにございまする、と行藤は平伏した。
一同は気ままな行藤のいいざまに口をポカンと開けた者すらある。
「さような勝手が、通るとでもお思いか!」
頼綱は苦虫を噛んだ顔を行藤に向けた。
が。
「もし加勢が得られぬとあれば九州の武士たちは容易には従いますまい」
鎌倉は九州を見捨てるおつもりか…と元軍に寝返って叛旗を翻されたらばいかがなされますか、と行藤は指摘した。
「もっとも頼綱どのが始末出来るのであれば、別に構いませぬが」
頼綱はますます渋い顔をした。
そこは最も鎌倉側が恐れる危険性でもある。
「行藤どのが申し条、もっともである」
答えたのは極楽寺業時である。
時宗も異議はなかったらしく、
「申し分通り、好きなだけ加勢を連れて行くがよい」
無論、これだけ無茶振りをしたのである。
(当たり前だがこれだけ無理を言うておけば、易々と早くは進まぬ)
この辺りが、異色の武辺と称されていた行藤ならではの眼識ではあった。
ここで。
先の鷹島での合戦でわずかにふれた、松浦水軍の佐志房(ふさし)の消息についてふれなければならない。
佐志軍の惣領を房から受け継いだのは一門の継(つぐる)である。
房は元へ渡った。
無謀だが、皇帝フビライの暗殺を画策し、あろうことか。城がある大都に潜入したのである。
やがて。
捕縛された。
フビライは海戦に長けた房を味方につけるべく、半年以上もの間、首をはねることなく説得を重ねた。
が。
房の不退転の決意は明らかであり、
「松浦を離れたときより、腹は決まっておる」
と決然たる信念を述べた。
フビライもこれには諦めざるを得なかったらしく、
「梟首せよ」
といい、房は数日後に処刑されている。
弘安三年となった。
元の船大工の作事場では、一般の商船の軍船への改装が進められており、
「九百艘揃えよ」
という命令でもあったので、作業はまさしく急ピッチであった。
この噂は伊予に戻っていた河野通有の耳に入っており、
「いよいよ来たか」
河野の家名を高めるはこのときぞ、と通有は家来を呼び、
「よいか、我等水軍は水軍らしゅう戦う」
といい、潮見の家来に命じ、博多や長門、安芸に肥前といった海の検分を指図したのであった。