【完】『海の擾乱』
9 出征
弘安三年七月。
博多への先見として行藤と嫡男の貞藤は鎌倉を発ち、二百騎の手勢を率い、京へ入った。
二階堂家の白く染め抜かれた三つ亀甲の真っ青な幟を幾流も立てた行軍が、久々に六波羅へ戻ってきたのである。
早速。
六波羅探題の北条時村と会見した行藤は、その足で一条家経との懐かしい対面を果たした。
家経はすでに摂政を辞め、為家卿仕込みの和歌の腕で日がな歌会ざんまいの毎日であったが、
「おぉ、よう参られた」
といい、まだ青公卿であった頃からの友との再会が、今はよほど嬉しかったものであったらしかった。
が。
行藤は戦時の姿である。
紺と白の敷目縅と呼ばれる鎧をまとっていた。
「そなたもやはり、博多へ参るのか?」
いかにも、と行藤は短く応じ、
「武家のならいにございます」
「して、このあとは?」
家経は訊いた。
「播磨へ下り、大輪田の泊にて河野通有どのの船とともに、瀬戸内を下りまする」
戦の前なれば、せめてものご挨拶に──と行藤は言い添えた。
「…そなたまで駆り出されるのか」
「武家とは、そうしたものでありましょう」
ついては嫡男の貞藤に京で働いてもらうゆえ、と続け、
「これよりあちこち披露目に参りまする」
「…いや待て」
ならば暑気払いの宴を開く、と家経は諸太夫を呼ばわった。
しばらくして…。
酒肴が来た。
「こうして酌み交わすも懐かしいの」
前はこの場に赤橋どのや、時輔どのもいたのやが、と家経は振り返った。
「かように国が危うくなる前のあの頃が、今では懐かしい」
赤橋義宗以外はみな歳が近く、とりわけ極楽寺時茂がいた頃はまだ国書の件すらなかっただけに、
「隔世の観あり、やな」
といった。
ところで──と家経はいい、
「前に時村どのが来たのやが」
鎌倉では使い物になるのか分からんが、と前置きした上で、
「時村どのはとんと御所のことが分からぬゆえ、話が前になかなか進みしませんのや」
とぼやいた。
使い物にならない、といわんばかりの口ぶりですらある。
「行藤どのがおった頃は、武家も公家もとりあえずそなたに話をつければ何とか執り成しようもあった」
今はそれすらない、と嘆いて、
「あれでは、朝廷と鎌倉に齟齬を来した折には下手をすると、こじれて戦になりかねぬ」
といい、公武の間に亀裂が出来はじめている可能性をにおわせた。
「鎌倉もそなたのような者を鎮西へ下らせるなどというのをやめて、いっそ連署あたりまで引き上げれば」
われら公卿衆も受け取りようがあるのやが、といい、周旋役がいないことによるギスギスとした状況は覆うべくもない様子である。
「戦が片付いたら六波羅へ戻ってくる気はないか」
「それは執権どのが、お決めになられることにございます」
行藤は盃を干した。
「そなたではどうしようもないのか…」
ともあれ討たれてはならぬ、と続け、
「生きて戻って参れ」
「──はっ」
行藤は頭を下げた。
それから数日の間は、貞藤の披露目の挨拶回りにバタバタとした時間を過ごしたのである。
河野通有が六波羅へたどり着いたのは弘安三年も八月に入った頃である。
すぐに行藤の屋敷へ入って、挨拶もそこそこに、
「いよいよ貴殿まで戦場に引っ張り出されることとなったか」
といい、船を手配してある旨を言上した。
「わざわざ大輪田まで行かずとも、この通有が案内いたす」
「やはり餅は餅屋の喩えもあるのだな」
行藤には通有が何とも頼もしく思われたらしい。
が。
翌日いきなり探題の北条時村に呼び出された。
「早馬で鎌倉から報せが来ておる」
というのである。
(はて…面妖な)
行藤の嫌な予感はよく当たる。
「これを見よ」
時村が行藤へ投げるように渡した書状には、
「…鎮西下向の儀、極楽寺殿(業時)差し下され候うところ、城ノ介殿(安達泰盛)異議仰せ出だされ、所司殿(頼綱)馳せ下らるの儀と相成り候へども、軍旗いまだ調はず、遅参の件ご容赦これあるべく候う由云々…」
とある。
「頼綱め、政所の所司ともあろう者が、出陣に軍勢もろくに揃えられぬとは」
いかがなものか、と時村は険しい顔つきで腕を組んだ。
「つまりそれがしは一人で先に鎮西へ行け、と」
「貴殿は、そうならざるを得まい」
しかも鎌倉出立のときには極楽寺業時とされていた陣容が、平頼綱に変わっているのである。
(どこまで鎌倉は他所を振り回せば気が済むのか)
行藤は思わず、
「これでは戦云々の以前にございましょう」
話になりませぬ、と本心を漏らした。
そのとき。
「…わしも、そう思う」
思わず口をついて出た時村の言葉も、同感であるという内心がにじみ出ていた。
「鎌倉は、腐るにいいだけ腐っておるとは、父上も申しておられたが」
よもやここまでとは…と、時村ですら嘆いてしまうほどの体たらくである。
「こうなってはわれら西国の武士たちで戦うより、他ありますまい」
そうつぶやいた時村の言葉は、同時に行藤の偽らざる実感でもあった。
屋敷へ戻ると滞在している河野通有が出てきた。
「どうであった?」
気が乗らない様子であったが、行藤はノロノロと、鎌倉からの早馬の話をした。
瞑目した通有は腕組みしながら聞いている。
すると。
「ということは裏を返せば、鎌倉の下手な指図は受けずとも良い、ということであろう」
行藤はハッとした。
「戦場には戦場にしか分からぬ物事とてありましょう」
昔よう時輔どのが仰せでございました、と通有はいった。
「時輔どのが、か」
さよう、と通有はうなずいて、
「かつて時輔どのが摂津へ船の巡見に参られたことがあってな」
鎌倉にいては分からぬものが他国にはある、と話していたことを通有は語り聞かせた。
「あれを思い出して、時輔どのは武士ではなく商人に生まれておれば、のちに行藤どのが首をはねる仕儀にいたらなんだのではあるまいかと後々、思うたのだ」
「通有どの…あれはそれがしが望んで首をはねたのではない」
行藤は力なくつぶやいた。
「時輔どのはそれがしに、北条の者にはねられるよりは、と直々に名指してきたのだ」
好きで首をはねたのではない、といった。
「みな、そういうものではないのか」
通有は続ける。
「何も好きで太刀を抜いて戦おうという者は少なかろう。が」
この世には嫌でも戦わねばならぬことがある、といい、
「浴びた返り血の分だけ、心にも深傷を負わされるのではあるまいか」
と通有はいうのである。
その瞬間。
強い風が庇の御簾をまき上げた。
「風か…遠からず雨になるやも知れぬな」
「雨?」
行藤は不思議そうな面持ちである。
「われら水軍の者どもは戦以外いつも船を操る。それゆえ」
雨や嵐の兆しを、風や雲を見て知るのだと通有はいってから、
「それが分かれば、嵐に前もって備えることも出来よう」
何しろ板子一枚の下は地獄だからな──そういうと通有は、豪快な高笑いの声をあげたのであった。
博多への先見として行藤と嫡男の貞藤は鎌倉を発ち、二百騎の手勢を率い、京へ入った。
二階堂家の白く染め抜かれた三つ亀甲の真っ青な幟を幾流も立てた行軍が、久々に六波羅へ戻ってきたのである。
早速。
六波羅探題の北条時村と会見した行藤は、その足で一条家経との懐かしい対面を果たした。
家経はすでに摂政を辞め、為家卿仕込みの和歌の腕で日がな歌会ざんまいの毎日であったが、
「おぉ、よう参られた」
といい、まだ青公卿であった頃からの友との再会が、今はよほど嬉しかったものであったらしかった。
が。
行藤は戦時の姿である。
紺と白の敷目縅と呼ばれる鎧をまとっていた。
「そなたもやはり、博多へ参るのか?」
いかにも、と行藤は短く応じ、
「武家のならいにございます」
「して、このあとは?」
家経は訊いた。
「播磨へ下り、大輪田の泊にて河野通有どのの船とともに、瀬戸内を下りまする」
戦の前なれば、せめてものご挨拶に──と行藤は言い添えた。
「…そなたまで駆り出されるのか」
「武家とは、そうしたものでありましょう」
ついては嫡男の貞藤に京で働いてもらうゆえ、と続け、
「これよりあちこち披露目に参りまする」
「…いや待て」
ならば暑気払いの宴を開く、と家経は諸太夫を呼ばわった。
しばらくして…。
酒肴が来た。
「こうして酌み交わすも懐かしいの」
前はこの場に赤橋どのや、時輔どのもいたのやが、と家経は振り返った。
「かように国が危うくなる前のあの頃が、今では懐かしい」
赤橋義宗以外はみな歳が近く、とりわけ極楽寺時茂がいた頃はまだ国書の件すらなかっただけに、
「隔世の観あり、やな」
といった。
ところで──と家経はいい、
「前に時村どのが来たのやが」
鎌倉では使い物になるのか分からんが、と前置きした上で、
「時村どのはとんと御所のことが分からぬゆえ、話が前になかなか進みしませんのや」
とぼやいた。
使い物にならない、といわんばかりの口ぶりですらある。
「行藤どのがおった頃は、武家も公家もとりあえずそなたに話をつければ何とか執り成しようもあった」
今はそれすらない、と嘆いて、
「あれでは、朝廷と鎌倉に齟齬を来した折には下手をすると、こじれて戦になりかねぬ」
といい、公武の間に亀裂が出来はじめている可能性をにおわせた。
「鎌倉もそなたのような者を鎮西へ下らせるなどというのをやめて、いっそ連署あたりまで引き上げれば」
われら公卿衆も受け取りようがあるのやが、といい、周旋役がいないことによるギスギスとした状況は覆うべくもない様子である。
「戦が片付いたら六波羅へ戻ってくる気はないか」
「それは執権どのが、お決めになられることにございます」
行藤は盃を干した。
「そなたではどうしようもないのか…」
ともあれ討たれてはならぬ、と続け、
「生きて戻って参れ」
「──はっ」
行藤は頭を下げた。
それから数日の間は、貞藤の披露目の挨拶回りにバタバタとした時間を過ごしたのである。
河野通有が六波羅へたどり着いたのは弘安三年も八月に入った頃である。
すぐに行藤の屋敷へ入って、挨拶もそこそこに、
「いよいよ貴殿まで戦場に引っ張り出されることとなったか」
といい、船を手配してある旨を言上した。
「わざわざ大輪田まで行かずとも、この通有が案内いたす」
「やはり餅は餅屋の喩えもあるのだな」
行藤には通有が何とも頼もしく思われたらしい。
が。
翌日いきなり探題の北条時村に呼び出された。
「早馬で鎌倉から報せが来ておる」
というのである。
(はて…面妖な)
行藤の嫌な予感はよく当たる。
「これを見よ」
時村が行藤へ投げるように渡した書状には、
「…鎮西下向の儀、極楽寺殿(業時)差し下され候うところ、城ノ介殿(安達泰盛)異議仰せ出だされ、所司殿(頼綱)馳せ下らるの儀と相成り候へども、軍旗いまだ調はず、遅参の件ご容赦これあるべく候う由云々…」
とある。
「頼綱め、政所の所司ともあろう者が、出陣に軍勢もろくに揃えられぬとは」
いかがなものか、と時村は険しい顔つきで腕を組んだ。
「つまりそれがしは一人で先に鎮西へ行け、と」
「貴殿は、そうならざるを得まい」
しかも鎌倉出立のときには極楽寺業時とされていた陣容が、平頼綱に変わっているのである。
(どこまで鎌倉は他所を振り回せば気が済むのか)
行藤は思わず、
「これでは戦云々の以前にございましょう」
話になりませぬ、と本心を漏らした。
そのとき。
「…わしも、そう思う」
思わず口をついて出た時村の言葉も、同感であるという内心がにじみ出ていた。
「鎌倉は、腐るにいいだけ腐っておるとは、父上も申しておられたが」
よもやここまでとは…と、時村ですら嘆いてしまうほどの体たらくである。
「こうなってはわれら西国の武士たちで戦うより、他ありますまい」
そうつぶやいた時村の言葉は、同時に行藤の偽らざる実感でもあった。
屋敷へ戻ると滞在している河野通有が出てきた。
「どうであった?」
気が乗らない様子であったが、行藤はノロノロと、鎌倉からの早馬の話をした。
瞑目した通有は腕組みしながら聞いている。
すると。
「ということは裏を返せば、鎌倉の下手な指図は受けずとも良い、ということであろう」
行藤はハッとした。
「戦場には戦場にしか分からぬ物事とてありましょう」
昔よう時輔どのが仰せでございました、と通有はいった。
「時輔どのが、か」
さよう、と通有はうなずいて、
「かつて時輔どのが摂津へ船の巡見に参られたことがあってな」
鎌倉にいては分からぬものが他国にはある、と話していたことを通有は語り聞かせた。
「あれを思い出して、時輔どのは武士ではなく商人に生まれておれば、のちに行藤どのが首をはねる仕儀にいたらなんだのではあるまいかと後々、思うたのだ」
「通有どの…あれはそれがしが望んで首をはねたのではない」
行藤は力なくつぶやいた。
「時輔どのはそれがしに、北条の者にはねられるよりは、と直々に名指してきたのだ」
好きで首をはねたのではない、といった。
「みな、そういうものではないのか」
通有は続ける。
「何も好きで太刀を抜いて戦おうという者は少なかろう。が」
この世には嫌でも戦わねばならぬことがある、といい、
「浴びた返り血の分だけ、心にも深傷を負わされるのではあるまいか」
と通有はいうのである。
その瞬間。
強い風が庇の御簾をまき上げた。
「風か…遠からず雨になるやも知れぬな」
「雨?」
行藤は不思議そうな面持ちである。
「われら水軍の者どもは戦以外いつも船を操る。それゆえ」
雨や嵐の兆しを、風や雲を見て知るのだと通有はいってから、
「それが分かれば、嵐に前もって備えることも出来よう」
何しろ板子一枚の下は地獄だからな──そういうと通有は、豪快な高笑いの声をあげたのであった。