【完】『海の擾乱』
12 河野の後築地(うしろついじ)
五月二十一日。
対馬の大明浦に上陸した、合浦からの高麗の東路軍は文永十一年の戦いと同様の残虐な戦いぶりで、見合う者を打ち殺すという惨状を繰り返した。
いっぽう。
壱岐には少弐資時と龍造寺季時、千葉宗胤の三人が松浦水軍を率いて出張って、五月二十五日までの数日の間、防戦にあたった。
二十六日。
東路軍は海上で暴風雨に遭遇し、兵と漕手の約百五十人の行方不明を出している。
六月に入った。
博多沖には六月一日、河野通有の河野水軍が志賀島と能古島の近くに小船と兵を布陣し、
「われら水軍は船が庭のようなものゆえ、とくとご披露つかまつる」
と言い切り、押敷に三つ文字の幟を無数に並べ立て、触れなば斬らんとばかりに無数の軍船が並ぶ異様な光景となった。
瑞梅寺川の頼綱の陣からもそれははっきりと見渡すことができ、隣に在陣中の忍性尼などは、
「あれが噂の河野の後ろ築地というものか」
といい、これが文永のときにもあれば…と密かに感じたものであったらしい。
六日。
能古島の沖で河野水軍と東路軍の本隊六百艘とが交戦を開始した。
「正面切って戦っては勝ち目がない」
舵を切り取れ、と通有は命じた。
あまりやらない手だが、船尾に回ると、東路軍の舵を鋸でギコギコ切り始めた。
「帆に火矢を放て!」
船ごと焼いてしまえ、というのである。
何とも乱暴な手段だが、
「いかに蒙古でも、舵がなければ動けまい」
と言い放ち、船という船に次々と火矢を射かけたのである。
こうして船ごと燃やされるなか、黄色と白の帆柱の船が沖へ退いてゆくのが見えた。
「あれは大将の船ぞ!」
通有は叫んだ。
すかさず軍船が群がって、続々と兵たちが船縁をよじ登る。
ところが。
武器もない素手の兵が次々河野水軍の兵を、海へ突き落として行くのである。
「あの手技はなんだ?」
「噂にある、少林寺の拳術ではありますまいか」
まだこの時期、拳法やカンフーという単語はない。
皇帝フビライが雪庭福裕という僧を少林寺の責任者に据え、その頃から拳術という武術はあらわれはじめていた。
「あれが弓矢も太刀も使わぬ武芸か」
通有は初めて見た。
そこで。
「網を持て!」
と通有は命じた。
網が来た。
すると、射かけてきた兵めがけて投網を始めたのである。
小船にいた東路軍の兵は一網打尽の文字通り絡め捕られた。
「矢を放てーっ!」
中に兵が入った網の団子に向かって一斉に矢が放たれた。
矢が雲丹のように刺さった網の団子は、そのまま海へ放り落とされた。
「やれ名乗りだ恩賞だと、武士の面目ばかりでは勝てぬわ」
吐き捨てるような通有の捨て台詞に、他の武士は返す言葉がなかった。
志賀島に近づけないと分かった東路軍は今津からの上陸を開始するべく舳先を西へ向けた。
気づいたのは安達盛宗配下の遊撃隊に組み込まれていた竹崎季長である。
「敵は今津に向かっておりまする」
盛宗に進言すると、同じく肥後の草野隊と大矢野隊と共に今津に向け進軍を開始。
上陸を試みた東路軍の一部は今津に近づいたが、浜の乱杭や石築地に進路を阻まれた。
再び志賀島に船が押し寄せると、通有は配下の久万水軍と村上水軍を率い、舳先に尖った丸太を結わい付けた兵船で敵船の横腹めがけ突撃し、刺さったのを幸い帆柱を橋桁にどっと乗り移った。
「雑魚の首は狙わず、大将の首を狙え!」
嫡男の河野通忠と共に通有は太刀を提げ、寄らば斬り合い次々敵をなぎ倒して奥へとゆく。
が。
何かが横合いから飛んできた。
右肩をやられた。
「…石弓か」
右が駄目なら左があるわい、といい通有は今度は左手で、太刀を操り始めたのである。
が、やがて通忠とはぐれた。
「若様があぶのうございまする!」
見ると例の拳法の使い手と通忠が間を詰めながら隙をうかがっている。
通有はいきなり後ろから敵に太刀を降り下ろした。
が。
鎧に弾かれた。
しばらく二対一で向き合っていたが、
「…!」
村上水軍の朱の鎧の兵が、長柄の手鉤で首を引っ掻けにかかった。
ひらりとかわすや、
「…!」
と海に咄嗟に飛び込んで泳ぎ消えた。
「…面倒な兵があるものよ」
「よもやあれ一人ではあるまい、油断はならぬ」
通有は隙を突いて大将ともおぼしき敵将を生け捕り、
「引き揚げるぞ」
言うが早いか、自らの船へ飛び降りた。
六月八日。
東路軍の一部は志賀島の浜の手薄な浜から上陸を開始した。
様子が見えた香椎の大友隊は、国東隊を率い浜辺を疾駆し、洲崎づたいに次々と乱戦に突入、最初は苦戦を強いられたが、筥崎の島津隊が到着するや形勢をひっくり返し撃退した。
今津にいた竹崎隊は志賀島へ向かうべく石築地を駆けに駆け、竹崎季長は途中、出くわした菊池武房と再会を果たした。
「ご無沙汰しておりまする」
「久しいのう」
「われらはこれより志賀島にて、白と黄色の帆柱の大将の船を攻めるところにございますれば、ご無礼いたしまする」
と口上をのべ、挨拶を交わし別れた。
砂浜を駆って竹崎隊が来た頃には交戦の最中で、負傷した河野通有を船まで警護し送り届けた。
竹崎隊はここで安達盛宗の隊とともに河野水軍と合流し、対岸の生の松原へ渡岸。
ちなみに竹崎季長は、生の松原で一番手柄を認められた。
こうした乱戦は六月十三日まで繰り返され、日本側は三百、東路軍も千人近い死者を出す一進一退の戦況であった。
その頃。
東路軍九百艘のうち三割の三百艘は、長門沖を目指し東へ侵攻をはじめた。
安東水軍からの早船で報を受けた行藤は、兵を宇都宮隊、二階堂隊、熊谷隊と三つに分け、うち熊谷隊を遊撃とし、迎え撃つ態勢を整えた。
六月八日。
豊浦の土井ヶ浜と八が浜に上陸という狼煙が上がり、宇都宮隊が崖から無数の火矢で迎撃して撃退、翌九日は下関の蓋井島から上陸をはかったが、
「投石隊、放てーっ!」
という行藤の号令のもと、まず石を雨あられと東路軍の先鋒に降らせた。
兵が船へ逃げ帰ったところを間断なく、
「大弓、放てーっ!」
と次は遠距離を狙える遠矢に火を点けた火矢を一斉に射撃したのである。
さらに。
次は油を染み込ませた油矢を放ち、船ごと火だるまにするという前代未聞の作戦を敢行した。
加勢した熊谷直高からは、
「いささか武門の掟にそぐわぬのでは」
といぶかられたが、
「敵は武士に非ず異国の賊、賊を討ち取るのに手段を選ぶ余地などありますまい」
と敢然と言い切り、熊谷直高もこれには黙らざるを得なかった。
この長門沖の戦いで東路軍の三百艘のほとんどは沈められ、残ったわずかな船は安東水軍の追撃に遭って、博多沖へと戻った。