【完】『海の擾乱』

14 島津の釣り野伏せ


島津久長が壱岐の行藤の陣にやってきたのは、海戦の真っ最中である。

「判官どの」

島津久長が立案の相棒に行藤を選んだのは、あとからすれば慧眼ともいうべき選択であった。

「船団を囮で誘き寄せて、一気に絡め取って一網打尽にする」

という戦略である。

「その前の段階として、波の高い外海に囮の船を仕立てて誘いをかける」

という二段構えの策であった。

行藤は碁石を地図に広げて一人で策を練っていたが、それを使って島津久長がつぶさに説明してゆくと、

「なるほど、囮とな」

この話、太宰府や博多にはせぬがよかろう──と行藤は応じた。

「なにゆえにございまするか」

「まず暇がなかろう」

確かに、博多まで船で早くても五日、さらに太宰府までは二日かかる。

「つまり往復で半月かかりまする。博多や太宰府の下命を待っていては、好機を逃しかねませぬ」

しかも、と行藤は、

「探題どのはあの通り戦をご存じなく、軍監の安達どのは囮や夜討ちを卑怯と蔑まれる向きがある」

裁可を得るなら頼綱どのがよい、と行藤はいった。

「もし島津どのが嫌なら、この行藤が策を申し上げに参る」

と席を立とうとしたので、島津久長も道連れで頼綱の陣に寄ることとなった。

当の頼綱は、

「それでわれらは必ず勝てまするか」

という反応で、どうやら早くけりをつけたがっているような様子であった。

「勝ち負けは時の運なれども異国が相手ゆえ、今までの戦法にとらわれぬ新しき戦をせねば勝ち目はありませぬ」

という行藤の言葉に、頼綱は乗った。



七月二十七日。

比志島隊の執拗な攻撃に音を上げた東路軍は、江南軍と平戸沖で落ち合い四千隻となっていったん下がったあと、捲土重来を期すべく三手に分かれ、それぞれ千隻を平戸沖の後詰め、能古島、二千隻は鷹島を目指した。

鷹島沖に着いた二千隻の船団は、松浦水軍の船団が思ったより大規模なことに気づいて、すぐには手出しをせず船を鎖で繋いで、船の隙をなくす手を取った。

松浦水軍もそのため、焦って手を出す愚挙はしなかったのである。



いっぽう。

能古島を目指した千隻の船団は、今津沖の河野水軍の船団とにらみ合いとなり、小競り合いとなった。

すでに負傷していた河野通有は、刳船(くりぶね)と呼ばれる小船を横に並べ板を打ち、機動力と安定性を確保した船で隙間を縫うように進軍させながら、さきの海戦でぶん取った震天雷や回砲で攻撃を仕掛けた。

さらに。

帆と舵に火矢を射かけて、身動きの取れなくなった船から元軍の矢の射程が近いのを逆手に取って、次々遠巻きに矢を放つ手に出た。

すると。

一人の兵が飛び降りて通有の船へ乗り込んだ。

「あれはこないだの」

例の拳法の李義勇ではないか、とすぐ気づいた。

「まだ生きていたのか」

太刀の柄に手をかけた通有と無言で対峙し、間を詰めてくる。

「…」

李義勇は何やら棒を鎖で繋いだ、ヌンチャクとのちに呼ばれる変わった道具を手に持っている。

通有はスラリと太刀を抜いた。

構えた。

さらに間を詰めてくる。

水軍の兵が李義勇に長刀で挑みかかったが、難なく払われ海に落ちてゆく。

わずかに通有の太刀の切っ先が動いた。

刹那。

ヌンチャクで通有の太刀が物打ちから、ポッキリ折れた。

「殿、ここはそれがしが」

家来が進み出た。

しかし。

家来の打刀を払ったあと、李義勇は肘でみぞおちを打ち込み、腹巻鎧の小札が肘の形に凹んだまま、家来は口から泡を吹いて吹っ飛んだ。

咄嗟に李義勇は船を飛び移った。

「待たれいっ!」

通有は内心、

(さながら義経どのだな)

八艘飛びよろしき身軽な李義勇を、通有は家来に制止され、深追いはできなかった。



ひらり、はらりと船を飛び舞う李義勇は、飛び移る船という船の将とおぼしき武士を、難なくヌンチャクで一撃に倒して行く。

倒しては舞い移り、倒しては舞い移りする蝶のごとき李義勇に、日本の兵たちは次第に、戦意を削がれつつあった。

次の瞬間。

それまで軽業のように身を飜していた李義勇の右目に矢が的中した。

動きが、止まった。

瞬間。

傷口から血を流しながら、李義勇はしぶきを立て海へ落ち、消えていった。

(いかなることか…?)

通有が振り向くと後方の船の、目結の紋が染め抜かれた旗をなびかせた舳先に、少弐景資がいる。

「いつまでも河野どのに手柄を奪われていたのでは、太宰少弐の面目も丸つぶれゆえのう」

莞爾とした景資の面目躍如であった。



能古島における戦いは一進一退であったものの、少弐景資の大弓でピンポイントを射る戦法が奏功し、どうにか博多上陸は防ぐことができた。

が。

まだ戦いは済んだわけではない。

島津久長の軍船は比志島時範の水軍とともに、平戸島の江南軍の主力部隊にわずかな手勢で攻撃を仕掛けた。

(釣られるかのう)

一隻、食い付いた船がある。

「火矢を放てーっ!」

船ごと焼くと、他の僚船が動き始めた。

(よし)

こうなると島津久長は判断が早い。

「船を退けーっ!」

すると主力部隊は追撃を開始した。

「目指すは鷹島、誘い出せーっ!」

ちなみに、この島津久長の囮を使った作戦ははるかな後年、直系の子孫である島津忠良と子の貴久、さらに孫の義弘によって「釣り野伏せ」という戦法として確立し、戦国時代を席巻するに至る。

話を戻す。

多数の船は完全に釣られた。

江南軍の二千隻の本隊は、結果的に鷹島の湾の奥深くまで誘き出されたのである。



七月二十八日。

この日は珍しく南風の日で、松浦水軍の水手の言葉を思い出した島津久長は、壱岐から鷹島に元軍を追撃していた行藤と頼綱に、

「近々大嵐が来るやも知れませぬゆえ、備えられたがよろしきかと」

と、進言した。

頼綱は一瞬、躊躇したが、

「判官どのは」

と行藤に話を振った。

「それがしも実は同じ噂を、通有どのから聞き及んでおりまする」

「しからば」

船を湊へ寄せてはどうか、と島津久長は問うたのである。

「…賭けだな」

頼綱が呟くと、

「確かに賭けではあろうが、そもそも戦そのものが双六や博奕のようなものではありませぬか」

行藤は答えた。

「賽の目に似たように振り回されるのであれば、たまには退いてみるのも手かも知れませぬな」

この行藤の発言で、夕刻になって、いったん船を湊へ寄せる措置がとられたのであった。



翌日。

空は雲が低くなり始めていた。

壱岐の龍造寺隊と千葉隊は勝本浦、島津隊と比志島隊は伊万里湾の福島、都甲隊と竹崎隊は伊万里湾の松浦へ、それぞれ転進を完了。

松浦水軍はそれぞれ島の持ち場に軍勢を集め、上陸に備える準備を整えた。

二十九日、夕方。

雨が降り始め、夜半には風まで吹き始めた。

「…これで多少でも船が減れば良いのだが」

頼綱は何とも他人任せなことをいった。

「よもや嵐を見越して誘き出したとは、元がいかにすぐれた学者を集めておろうとも、さすがに考え付きますまい」

すでに行藤は、敵が様々な知識を持つ大国であることを知っている。

「学者?」

島津久長は不思議な顔をした。

「かの国は宋のすぐれた学者や知識を取り入れ、今までにない国づくりをしておると聞いておる」

それを示してくれた謝国明は、すでに三年前に米寿の天命を全うしている。

(天寿とはいえ)

母国と住まう国が争うさまを、何度も見ずに済んだのは却って良かったのでは…と行藤にはそう思われた。

が。

(これで裏をかかれたら最期だな)

という危惧も行藤にはある。

「…ちと物見をして参りまする」

すでに風は強い。

「物見など家来にさせればよろしゅうございましょうほどに…」

頼綱はいった。

「いや、判官どのには何か思い当たるものがあってのことであろう」

それがしもお供いたす、と島津久長は床几を立った。

雨風のなか島津久長は行藤を追う。

敷目縅の鎧が見えた。

「判官どの!」

「…島津どの、なぜに」

「お手前、裏をかかれるのを案じてはおりませぬか」

「…」

図星であろう、といい、

「それがしもそこは案じておりまする」

ともに参ろう、と雨のなか浜へ向かって松明を手に歩いた。

「…これでは見えぬな」

「前に平戸島で見たが、敵は泊まると船を鎖で繋いでおる」

どうやら逃散をはかる船があるらしいのだ、と島津久長は指摘した。

「裏を返せば兵糧が尽き始めておる証であろう」

戦の終わりは近い、と続け、

「それがしは最初、恩賞を増やしたいがために参陣いたしたが、今は変わり申した」

すぐれた家来は禄がなくとも仕え、むしろ恩賞目当ては大した家来ではない、というのである。

「かような判官どのが仕える執権どのは果報者よ」

ただすぐれた執権どのであればの話だが、と島津久長は付け加えた。

「…船は見えませぬな」

ひとまず陣へ戻りましょう、と島津久長がいうと行藤とともに陣へ戻った。




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